瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

美術の思ひ出(2)

 昨日の続き。
 本覺寺での太宰みたいな人との邂逅は、私を大分良い気分にさせました。が、それだからと云って、私はどうもしなかったのです。そして、2人めが私に与えてくれたもっと明瞭なメッセージも、私はみすみす逃してしまったのでした。

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 中3の2学期、3学期ではなかったと思いますが、まさに中学の授業として卒業制作に当たるものを拵えている頃、担任の美術教師から、美術の授業だったかHRの前後だったか覚えていないのですが、「××、お前高校入ったら何部入るの?」と訊かれました。「まだ決めてません」と答えると「じゃ、美術部入んな」と言われたのです。どうしてか、と応じると、「美的センスがある」と言うのです。
 私より絵の上手い同級生が何人もいるのに何でだ、と思いつつ、かなり良い心持ちだったことを覚えています。
 この人は中学2年のときからのクラス替えなしの*1担任で、1年のときにも美術は教わっていたように思うのですが、どうも記憶がありません。
 それはともかく、この会話は近くにいた女子生徒に混ぜっ返されてそのままになってしまい、この後、担任からこの件を蒸し返されることもないまま卒業し、私は親の転勤先の兵庫県立高等学校に進学しましたから、中学の人たちとはほぼ再会する機会がなくなったのを良いことに、私は美術部には入らなかったのでした*2。いえ、一応様子は見てみたのですが少人数かつ女子ばかりで、昭和の男子である私には、とても入れそうになかったのです*3
 結局、中学時代文化部に入ってしまった反省から(2016年2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」に述べたように、自転車の遠乗りで運動は十分こなしていましたけれども)山岳部に入ったのでした。しかしながら、山岳部は2017年4月3日付「山岳部の思ひ出(6)」等に述べたように、内部崩壊のような按配の上に追放され、協調性も何も養えなかったのですけれども。
 そして、美術の方は、芸術科目の第一希望を美術にしたので、そっちで細々と続けられれば良いと思っていたのですが、第二希望の音楽の方に振り分けられてしまいました。――小学生から中学に上がる頃までエレクトーンを習わせられていたので、音楽の成績も悪くなく(今は楽譜も読めませんが)そして美的センスはあっても性格にムラがあって根気よく丁寧に作品を仕上げなかったこともあり、音楽も美術も成績は4で同じでした。美術が5なら優先されたかも知れませんが、そうでなかったので人気のない音楽に振り分けられてしまったらしいのです。2つ書ける希望のどちらかを書道にして置けば一番人気だったらしいので*4美術に決まったらしいのですけれども、そこまでの智恵はありません。
 こうして私は中学までで美術からは撤退し、院生時代に美術史について調べて論文を書いたこともありますけれども、自ら何か創造しようと云う気分にはならず、展覧会も億劫で出掛けなくなって久しくなっております。
 まぁ高校の音楽の授業は(たぶん美術より、もちろん書道よりも)楽しかったので、あれで良かったのだろうと当時も今も思っています。教師が実はプロの歌い手で、それだけでは食えないので高校教師をやっていたような人で、10年以上前に「週刊新潮」の有名人の質問に専門家が答える欄に、回答者として登場しているのを見たのですが、大学教授になっていました。――今、調べて見ると私たちの卒業と同時に高校教員を辞めて大学に移っていたのでした。私は卒業とともに上京して部活も追放されて、高校とは全く縁がなくなってしまったので教師の動向について殆ど知らずにいたため、たまにこんなことがあると思い出して、昨年定年退職をしていたとか、まだ存命らしいとか、そんな情報を見付けて、今更会おうとは思わないのですが何だか懐かしいような気分にはなるのです。(以下続稿)

*1:11月16日追記】「クラス替えなしの」を追加。

*2:この辺りのことも、昨日触れた20年余り前に書いた小説に、こちらは高校進学後に「太宰」みたいな「中学の担任の美術教師」が高校を訪ねて来た設定にして書いたことがあるのでもっと詳しく書けるのですが、これも簡単に纏めました。

*3:共学の高校の非常勤講師を勤めたとき、男女の垣根のなさに吃驚したものでした。いえ、この高校もかなり男女の交流が自由な気風でしたが、私はそれまでの硬派(?)の気分を保持したまま乗り切ってしまったので、女子と仲良くしたような記憶は殆どありません。

*4:私には退屈ですけれども単純作業で美術・音楽に比べれば面倒臭くない、と云うことでしょうか。