瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

校舎屋上の焼身自殺(19)

・「週刊新潮」2月6日号(6)
 一昨日の続き。
 10月26日付(07)に注意した、曜日と時間の問題ですが、10月29日付「閉じ込められた女子学生(17)」の最後に触れた、昭和56年(1981)の卒業制作の時期の、東京造形大学の学生凍死が念頭にありましたので、或いは卒業制作の時期に限って泊り込みなどが許可されていたのではないか、と思っていたのですが、交通不便な山あいにある共学校ならともかく、都内の住宅街にある女子大ではやはりそんなことは認められていなかったのでした。
 自殺者は日曜日の入構期限である午後3時に自宅を出て、恐らく直行はせずにどこかで時間を潰して*1、夜陰に乗じて「どこか秘密のルート」から誰にも見咎められることなく人気のない校舎に忍び込んだ訳です。当時のセキュリティであれば、どこか塀の隙間から構内に入って、便所など人目に付きにくい窓を施錠せずに置けば、そこから校舎にも侵入出来たでしょう。――3日くらい前にそのような窓を施錠せずに置いて翌日も翌々日も施錠されていなければ、毎日の巡回等でそこはチェックされていない訳で、その窓から侵入してしまってから施錠して置けば、どこから入ったのかは指紋を確かめない限り判明しません。犯人の分からない窃盗であればそこまで捜査したでしょうが、そうではないので侵入経路までは調べなかったでしょう。
 私には夜の校舎に忍び込んだ経験はありません。私の中学は山城のように丘陵を利用して建てられていたので、塀で囲う訳には行かず、構内には夜でも入れました*2。そのためか、夜の学校を舞台にした怪談が幾つか語られていました。そう云えば、体育館の戸が開いていたような記憶があるのです。――同世代の連中から聞いた他の地域の学校の怪談にも、夜、校内に忍び込んだと云う話が幾つもありました。その後高校非常勤講師として勤めた学校ではちょっと考えられないことなのですが、昭和末の学校には、帰りに見上げた校舎の窓が開いていたとか、そういう緩さが確かにありました。
 今でも、――忘れ物を取りに夜、教室に忍び込んだら、……と云った話は語られているのでしょうか。今ではちょっとリアリティがないような気がします*3
 そう云えば、私が小学生の頃読んだ漫画には、先生が宿直の晩の体験を話す場面がありましたが、実際に小・中学校で教わった先生から宿直の話を聞いたことは私にはありません。小学校には用務員室があって、用務員さんがそこに寝泊りしているようでした(しかし寝泊りするところを実際に見た訳ではない)。宿直の怪談も本で読んだだけだと思います*4。宿直の話で恐かったと云えばもう10年くらい前になると思いますが、余った青春18切符で特に何の当てもなく伊東に出掛けた折に、図書館の郷土資料の棚の端にあった狩野川台風の直後に纏められた体験文集(活版)に目を通したのですが、――田圃を潰して建てた中学校が夜間に濁流に襲われ、宿直の若い男の先生が木造校舎の3階に上がって懐中電灯を振っているのだけれども、見ているこちらも懐中電灯を振るばかりでもうどうすることも出来ない、そうこうするうち先生が振る懐中電灯が見え続けながら校舎が動き始め、ついに見えなくなってしまった、と云う生徒の作文が載っていて*5、私は怪談にはあまり恐怖を覚えないのですが、これはかなり強く心に刻まれたことでした。
 それはともかく、10月16日付(13)に引いた川奈まり子実話怪談 出没地帯』が高校生がまだいる時間の出来事として書き、そして恐らく女子美術大学の事件を取り込んだらしき多摩美術大学の話も、やはり深夜のこととしていないように、学校のセキュリティが厳しくなるにつれて、理解出来ない設定が排除されて行くことになる訳です*6。(以下続稿)

*1:こう考えると石油ストーブのカートリッジは、自宅から持ち歩いたのではなくて、学校にあったものを使ったのではないか、と思われます。

*2:一度だけ、門柱だけで扉のない正門から校舎の間の照明がなく真っ暗な道を抜けてグラウンド側の、名のみで門柱もない裏門に出たことがありました。

*3:案外簡単に実行出来てしまうかも知れませんが。

*4:タモリ倶楽部」の「空耳アワー」の「パン 茶 宿直」も今は注釈が必要でしょう。

*5:投稿当初「韮山の中学校」としていたが、曖昧な記憶なので地名を削除した。詰襟学生服の顔写真が載っていたのは覚えているのですが。

*6:多摩美術大学の話は余り時間差なく語られ始められているらしいので「排除」と云うよりも「曖昧」にしている、と云うべきでしょうか。