瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(3)

 昨日見た長沖渉「あとがき」の冒頭に「『上方笑芸見聞録』は朝日放送のPR雑誌『放送朝日』に、昭和四十八年から四十九年まで二年間にわたり二十四回連載された」とある。
 そこで、推定される号とその刊年月を、本書の章節と対照させてみよう。【 】に連載の回数、恐らく連載時に回数が入っていたと思うが「放送朝日」を見ていないので仮に算用数字で示した。
【1】224号(昭和48年1月)
  7~15頁3行め「上方笑芸エスプリ」
【2】225号(昭和48年2月)
  16~24頁10行め「漫才を育てた人たち」
【3】226号(昭和48年3月)
  25頁2行め~33頁7行め「横山エンタツ」一
【4】227号(昭和48年4月)
  33頁8行め~41頁1行め「横山エンタツ」二
【5】228号(昭和48年5月)
  41頁2行め~49頁2行め「横山エンタツ」三
【6】229号(昭和48年6月)
  49頁3行め~56頁11行め「横山エンタツ」四
【7】230号(昭和48年7月)
  57頁2行め~64頁9行め「花菱アチャコ」一
【8】231号(昭和48年8月)
  64頁10行め~71頁10行め「花菱アチャコ」二
【9】232号(昭和48年9月)
  71頁11行め~78頁12行め「花菱アチャコ」三
【10】233号(昭和48年10月)
  78頁13行め~85頁10行め「花菱アチャコ」四
【11】234号(昭和48年11月)
  86頁2行め~93頁4行め「ミス・ワカナ」一
【12】235号(昭和48年12月)
  93頁5行め~99頁13行め「ミス・ワカナ」二
【13】236号(昭和49年1月)
  100~106頁9行め「ミス・ワカナ」三
【14】237号(昭和49年2月)
  107頁2行め~114頁9行め「奇人・珍芸」一
【15】238号(昭和49年3月)
  114頁10行め~121頁14行め「奇人・珍芸」二
【16】239号(昭和49年4月)
  122~128頁11行め「奇人・珍芸」三
【17】240号(昭和49年5月)
  128頁12行め~135頁9行め「奇人・珍芸」四
【18】241号(昭和49年6月)
  135頁10行め~143頁5行め「奇人・珍芸」五
【19】242号(昭和49年7月)
  143頁6行め~149頁14行め「奇人・珍芸」六
【20】243号(昭和49年8月)
  150~156頁11行め「奇人・珍芸」七
【21】244号(昭和49年9月)
  157頁2行め~164頁12行め「浪花千栄子」一
【22】245号(昭和49年10月)
  164頁13行め~171頁12行め「浪花千栄子」二
【23】246号(昭和49年11月)
  171頁13行め~178頁11行め「浪花千栄子」三
【24】247号(昭和49年12月)
  178頁12行め~185頁14行め「浪花千栄子」四
 丁度24節である。
対談 わが有為転変」は末尾229頁5行めに下寄せでやや小さく「(帝塚山学院大学「日本文学研究」八号)」とあって、遺著と云うことで「上方笑芸見聞録」とは別に発表された、本人の語った閲歴を抱き合わせた訳である。「帝塚山学院大学日本文学研究」の8号は昭和52年(1977)3月刊、52頁で「対談『わが有為転変』」は巻頭、1~24頁に収録されている(未見)。なお、関西大学図書館には「[長沖一旧蔵自筆原稿 7種]」として「『文学雑誌』昭和47年12月掲載」の6人の原稿に加えて、

[7]: わが有為轉変(假題) / 庄野英二聞き手 ; 長沖一話し手 ; 向井芳樹, 山田録音記述
[7]: 「わが有為轉変(假題)」p1-[15] 満寿屋製400字詰原稿用紙(赤)16枚 ペン書

と、元の原稿が保管されている(未見)。掲載誌を註記しないのは気付かなかったからか。なお「山田」と云うのは226頁9行めに、

庄野 山田君、知ってる? カストリ雑誌て……ああ、それですよ。

帝塚山学院大学副学長(1966.4.23~1974.3.31)学長(1975.4.1~1979.3.31、1981.4.1~1985.3.31)であった庄野英二(1915.11.20~1993.11.26)に呼び掛けられているが、昭和51年(1976)8月5日の長沖氏歿時に帝塚山学院大学文学部教授であった山田博光(1928.5.10生)であろう。後に学長(1989.4.1~1997.3.31)を務めている。向井芳樹(1933~2010.5.6)も帝塚山学院大学文学部教授だった。とにかく長沖氏最晩年の収録なのだろうけれども日付がないのではっきりしない。(以下続稿)