瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(8)

花菱アチャコの藝名(2)
 昨日、Wikipedia花菱アチャコ」項に、『昭和人物エピソード事典』を典拠として挙がるアチャコの由来説3種について、その全てが本書にも見えることを指摘した。尤も「アーチョン」説については「アチャコが決まって説明していたのは」とあるから他にもこれを紹介した文献があるのであろう。
 さて、長沖氏は69頁11行め「本人に語ってもらおう。」として、12行めから70頁12行めまで、アチャコ本人の語る「アアッ、チョン!」説を紹介する。すなわち、本稿の執筆のためにアチャコ本人に取材したようで、これに基づいて前章「横山エンタツ」での記述の訂正も行っているのだが、そのことはしばらく措くとして、13~14行め、

 彼自身が私の問にこう答えたのだから、そのとおりなのだろう。が、私にはもう一つ納得が/いかない。そこで最後に私自身の作った珍説をお笑いまでに紹介しておく。

と最後に自説を開陳するのである。
 それが71頁2~3行め「長崎は古/賀の土人形阿茶さん」由来説で、まだ4行め「本物を見」る機会はないが、1~2行め「郷土玩具のことを書い/た書物」に3行め「出ている」5~10行め、

‥‥、/写真だけで見ると、私には、まだ十代だったアチャコは、その人形そっくりの可愛い愛嬌のある/顔をしていたと思えてならないのである。
 以来、私は自分勝手にアチャコという芸名の由来は、この阿茶さん人形からきたのだときめて/しまった。阿茶さんの児でアチャコ、そう思いたいのである。もちろん、なんの根拠もあるわけ/ではない。アチャコその人にたずねたこともない。そこで、わが親愛なるアチャコ君よ、もって/いかんとなすや? ムチャクチャデゴザリマスだろうか。

と云う、本人も「珍説」と断っているように正直思い付きの域を出ないものなのである。似てなくはないのだけれども。――こんな説まで拾っているところからして、『昭和人物エピソード事典』は本書を典拠として活用しているのであろう。
 しかし『昭和人物エピソード事典』は本書にもう1つ、阿茶さん人形よりも典拠正しき説が紹介されているのを見落としている。これなどは書籍化のための加筆修正が行われていたら、「花菱アチャコ」の章の最後に配置されるか、或いはこの「二」節から横山エンタツの出生地に関する記述を削った穴埋めに、上に引いた「二」節の最後に追加して紹介されることになっただろうと思われるのだけれども、そうした作業が行われなかったために昭和49年(1974)12月号の「放送朝日」に掲載された第【24】回の、恐らくそのまま形を確認することが出来る。すなわち「浪花千栄子」の「四」節め、6月3日付(3)に確認したように連載の最終回だが、この節は178頁13行め「 落ち穂拾い。‥‥」と書き出して、浪花千栄子の自伝『水のように』にも語られていない、少女時代の回想を、6月6日付(6)に触れたように吉田留三郎の博識に援けられながら紹介し、184頁7~8行め「‥‥。浪/花千栄子のことはこれで終ろう。」と切り上げているのだが、続いて最後の最後に7月25日に死去した花菱アチャコについて9~11行め、

 ところで、花菱アチャコも、とうとう亡くなってしまった。そこで、余白をかりて、彼の死後、/耳にし、そんなこともあったなと思い出した話を、これも拾遺といった形で記しておこう。二つ/とも、あちこちの放送局の追悼座談会に駆り出され、耳にしたことだ。

として、12行め~185頁4行めの「一つ」めは『お父さんはお人好し』の休憩時間の出来事、そして最後の「二つ目」が、アチャコの由来説なのである。(以下続稿)