瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(4)

 ここで6月2日付(2)に述べた、歿後刊行のため雑誌連載をそのまま収録している、と云った按配であることが明瞭に窺われる箇所を2つ、見て置きたい。
横山エンタツの出生地(1)
 「花菱アチャコ」の「二」節めは、6月3日付(3)に示した細目にある通り、連載の第【8】回で、昭和48年(1973)8月の「放送朝日」231号に掲載されたものと推定されるが、花菱アチャコ(1897.7.10~1974.7.25)の幼少時のことを述べて、66頁9~12行め、

 また彼が芸人になってからも、母親は陰になり日向になり死ぬまでかばってくれた。母親のこ/とを思うと今でも涙がこぼれると語ったことがある。そしてまた、その母親が十二月の三十一日/に死んだので元日は雑煮も祝わないのだとも言っていた。そういえば、横山エンタツがたいへん/な父親思いであったのと対照的である。

と続けるのだが、ここからしばらく横山エンタツ(1896.4.22~1971.3.21)の話に脱線するのである。66頁13行め~67頁1行め、

 横山エンタツのことがでたので、唐突だが忘れないうちにエンタツの出生地について補足して/おきたい。じつは藤沢桓夫が二度にわたって、私が先に書いた件、つまりエンタツの出身地が尼/崎という説があり、エンタツ自身は姫路と言っているが、中学の下級生に棋士のH七段がいたと/いうからH七段の名がわかれば出身地もはっきりするだろうということについて、親切に手紙で/【66】教えてくれた。引用させてもらう。


 この「先に書いた件」とは、連載の第【4】回、昭和48年4月の「放送朝日」227号に掲載されたと思しき「横山エンタツ」の「二」節め、34頁11行め~35頁6行め、

 昭和十一年、横山エンタツ『漫才読本』という単行本が東京の柳香書院から出版された。映画/『あきれた連中』で、一躍エンタツのコメディアンとしての名声が高くなったころだ。内容はエ/ンタツが実際に高座でやっていた漫才『早慶戦』その他、また秋田実エンタツ用に書いた台本、/『あきれた連中』のシナリオの読物化したものなどだが、その中の一篇として私の口述筆記した/彼の自叙伝を入れたのであった。
 「石田正見は明治二十九年四月二十二日に播州は姫路で生れたのです」
 石田正見は横山エンタツの本名である。ところが尼崎の産だと言うひともあった。いずれにし/ても兵庫県出身であることだけは間違いなかろう。自伝中に中学の下級生に「今、将棋界で鳴ら/しているH七段がいた」というところがあるから、そのHが誰かわかると、出身地もはっきりす/るだろう。が、私はこれ以上穿鑿する気はない。彼の足跡をたどりながら、私なりに横山エンタ/ツという人物を解きほぐして組み立てたいだけなのである。


 横山ヱンタツ著『漫才讀本』は、ネットオークションに昨年出品されていたものの写真を参照するに、昭和十一年六月一日 印刷・昭和十一年六月五日 發行・定價一圓、検印紙には「秋田」の朱文円印。すなわち検印は秋田実(1905.7.15~1977.10.27)。
 岡田敬・伏水修 監督映画『あきれた連中』秋田実原作で、昭和11年(1936)1月公開。

 さて、長沖氏としては自分の手許にある材料で人物像を組み立てられれば、と云うつもりだったようだが、これを読んだ友人の藤沢桓夫(1904.7.12~1989.6.12)が、この人は文壇きっての将棋通であったので、早速、横山エンタツの後輩だという「H七段」の候補について調べ、知らせて来たのであった。(以下続稿)