・花菱アチャコの藝名(3)
昨日の続きで、連載の最後に「拾遺といった形で」紹介されている、アチャコの由来説を見て置こう。185頁5~8行め、
二つ目は、別の座談会で、杉浦エノスケに久しぶりに会った。彼はアチャコより二つ歳上とい/うが元気だ。しかも、アチャコの若い頃からの友人だというから六十年来の友ということになろ/う。そのエノスケのアチャコという芸名の由来説である。聞いてから、前にも彼から聞いたこと/があったと思い出した。
富士正晴「長沖一という人」に、236頁16行め「上品なスポーツマンタイプの温良典雅」で、237頁6行め「不思議な無限ともいうべき謙譲さ」を具えた人物と評されている長沖氏をして、6月7日付(7)に見たようにアッチャコッチャ説に対して「これはどうも造り話の気がしてならないのだが」とか、6月8日付(8)に見たように本人の語るアアッチョン説に対して「私にはもう一つ納得がいかない」などと突っ掛からせ、それより説得力のない阿茶さん人形説を自ら唱えさせたりしたのは、この杉浦エノスケ(1895~?)説が、聞いたことも忘れてしまいながら何か別の説があったはずだと何となく引っ掛かっていて、どんな説を聞いても「いまだに納得がいかぬ」状態を長沖氏に強いていたためらしいのである。
その杉浦エノスケ説であるが、添えてある長沖氏のコメントとともに抜いて置こう。9~14行め、
「アチャやんは千代丸というのとマンザイをやってました。千代丸というのは、いわばアチャ/やんの師匠で、千代丸が無声映画時代の弁士の真似をやります。そばでアチャやんがその頃から/薄い髪を振り乱して暴れます。ところが、その時分の西洋活動写真の女優の名は、みんなメリー/さんだっしゃろ。アチャやんは西洋人に似てるが男やよってにメリーさんでは具合が悪い。そこ/で、でけた名がアチャリー。そのアチャリーがアチャコになりましてんがな」
これが恐らく正しいのだろう。
この藝については、本書の中で度々言及されている。まづ「横山エンタツ」の章の「三」節め、横山エンタツについて、42頁3~4行め「‥‥、彼は昭和四年八月三十一日に横浜出帆の天洋丸の三等船客として萬歳、浪花節、女連/の手踊りと男五人女四人の一行で北米合衆国へ巡業に出ている。‥‥」そして44頁3行め「 アメリカ巡業から帰国した彼は芸人として時分に絶望して実業家になろうとした。‥‥」しかし、44頁7~12行め、
事業に失敗して、彼は逼塞していたらしい。その彼を引っ張り出して、花菱アチャコとコンビ/を組ませたのは吉本せいであったか林正之助であったか、それは、私にはわからぬ。
「そのとき、アチャコは……」
と、彼は語る。
「天満の寄席で千歳家今男と組んで『ジゴマ』の真似をやってました。今男が活弁の口真似を/やると、アチャコが髪を振り乱してジゴマを演じるのです」
杉浦エノスケの云う菅原家千代丸との先後については、本書に見える同類の話を全て挙げた上で確認することとしよう。
吉本せい(1889.12.5~1950.3.14)林正之助(1899.1.23~1991.4.24)姉弟の吉本興業でエンタツアチャコが組んだのは昭和5年(1930)、長沖氏は続いて『ジゴマ』について説明しているが、これについては次回に回すこととしよう。(以下続稿)