瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(2)

 昨日は一昨日の続きを投稿するつもりで、帰宅後準備しようとしたら(1)が投稿されていた。
 連休中に、連休明けに本書について投稿するつもりで準備していたのだが、当初(2)として次に上げるつもりだった2000年に作成した索引が、そのまま上げられるようなものではないことが引っ掛かった。――50音順に並んでいないのである。
 尤も、そのまま上げても役には立つであろう。大体索引など頭から眺めるようなものではないのだから、利用者は本書に載っていそうな人名や劇場・寄席などをブラウザの検索窓に入力して、検索すれば良いのである。
 しかし、そうだとしても体裁不備の言い訳をそれなりに書かないといけなくなる。そんなことをするくらいなら、やはり本書を再見して50音順に整えてから投稿しようと思って、既に予約投稿をの設定をしていた(1)の、投稿日時を消去しようとしたのだが、空欄に出来ない。
 そこで、遅くても5月中には投稿出来るだろうと思って、投稿日時を仮に6月1日16時にして置いたのである。
 その後、5月中旬に本書を借りて来て一通り目を通したのだが、その頃、4月からの懸案であった東京の職人関連本について見ているうちにそのままになって、ふと26年前の旅行時の城端線の美女について妙なことを思い付いたことで越中旅行の回想をつらつら述べているうち、昨日(1)の予約投稿を設定してあったことを、すっかり忘れていたのである。
 殆ど閲覧されていないらしい(!)ので、取り下げて、本書と同時に借りた奥野健男『文学における原風景』増補版についての記事と差し替えようかと思ったのだが、何だか疲れてしまってそのままにしてしまった。毎日投稿することにしているからそれなりに回しているのだが、やはり負担ではある。
 さて、(1)を準備した時点では翌日に投稿するつもりであった索引だが、やはり点検旁々体裁を整えてから上げることにした。まだ整っていない。
 そこで今回は、何故索引を拵えたのか、その理由を本書の成立事情と絡めながら述べることとしよう。
 本書は著者歿後刊行のため、巻末に、昨日示した「目  次」により諒解されるように、友人や遺族に拠る解説に当たる文章が並んでいる。 
 藤沢桓夫「上方の笑いの名著」は、冒頭231頁3~8行め、

 生涯の友と呼ぶにふさわしい二人の旧き良き友達を、最近私は相次いで喪った。ともに上方の/笑いのために大きく貢献した長沖一君と秋田実君である。私たち三人は、ともに大阪に生れ、秋/田君と私は今宮中学から、長沖君は天王寺中学から、大正十一年に新設されたばかりの大阪高校/の文科に入学、そこで友情を深めて「お前」「おれ」の文学仲間となり、相携えて東大に進むこ/とになるのだが、やがて三十歳ごろから三人ともに大阪に戻ってそれぞれの仕事に精を出すこと/になり、‥‥

とあるように旧制高校以来の親友で、その人となりと才能について端的に述べているが、最後に本書について、233頁12行め~234頁4行め、

 『上方笑芸見聞録』は、長沖君の晩年の労作である。笑いの都と異名される大阪は、明治・大/正・昭和にわたって、高座に舞台に、幾多の笑いの天才や名手たちを輩出させて来た。長沖君自/身の眼で身近かに見て来たそれら男女の笑いのチャンピオンたちの人柄、芸風、公私のエピソー/ド、そして関西の笑いの伝統を、長沖君がこの仕事のなかに系統的に盛り上げてみようと企てた。
 『上方笑芸見聞録』は、朝日放送が発行していた月刊誌『放送朝日』に二年間連載された。は/【233】じめは一年間で完結する予定だったのが、読者の反響の大きさと、長沖君自身も書き進めて行く/うちに興が乗ってきて、一年間延長となったらしいが、上方笑芸のこの貴重な資料は恐らく不朽/の名著として後世までつたわるのではないのか。雑誌に連載中から毎月待ちかねてこれを愛読し/た一人として、私はそのことを確く信じて疑わない。

と述べている。「朝日放送が発行していた」と云うのは、昭和50年(1975)12月の259号で廃刊になっているからである。そんな「読者の反響」が「大き」い「雑誌」が何故、この連載終了の1年後に廃刊になってしまったのか、気になるところである。
 そして、著者の子息・長沖渉「あとがき」には、冒頭、239頁2~5行め、

 『上方笑芸見聞録』は朝日放送のPR雑誌『放送朝日』に、昭和四十八年から四十九年まで二/年間にわたり二十四回連載された。最初にこの企画を思いつかれたのは朝日放送出版部長の鬼内/仙次氏であった。氏は同人誌『文学雑誌』長沖一追悼号で、当時のことを次のように語っておら/れる。

と、連載の時期と回数が明示される。そして6行めから240頁1行めまで、前後1行ずつ空けてこの企画について話したところ承知してもらえなかった件が引用され、2~8行めの地の文で、

 そしてちょうどその一年後、同じことを頼んでみたところ、不承不承ながら承諾したそうであ/る。
 昭和四十七年の九月頃から父は書き始める。やはり最初は古い記憶を辿るのに、思ったより苦/労があったようで、ほぼ一週間ごとに鬼内氏宛、原稿遅延の詫び状を何通か送っている。ところ/が、筆を進めるにつれて当初の予定枚数をはるかに越えてしまい、一年の約束を二年に延ばして/ほしい、と頼むほど力が入ってきた。この要望は父の性格から考えて、生涯でも珍しいわがまま*1/ではなかったか。

と、恐らく鬼内氏の文章を要約して述べている。この「性格」については、もう1つの解説に当たる文章、富士正晴長沖一という人」にも、237頁6行め「彼のそうした不思議な無限ともいうべき謙譲さ、人間愛の深さ」として触れてあった。
 連載終了から長沖氏の死まで1年半余りあったが、書籍化に向けて加筆修正などの作業は行われていなかったらしく、本書はこの「記憶を辿り」辿りした連載を、そのまま再録しているらしい。
 そのため、以前に書いたことについて、知友などから間違いを指摘されて訂正を入れたり、と云ったことが頻繁に行われている。こうした、記憶違いも含めた異説が多々収録されていることが本書の魅力なのであるが、そのため同じ事柄に対する記述が分散している。それを見落とさないためにも、索引が必要だと考えたのである。多分。(以下続稿)

*1:「わがまま」に傍点「ヽ」あり。