瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(11)

花菱アチャコの藝名(5)
 昨日の続き。
 さて、本書には、相方の活動弁士の真似に合わせて、アチャコが髪を振り乱して踊る(?)という藝について、三人三様の証言が記録されている。これを登場順に番号を附し、掲載される章・節、~相方の名と真似た無声映画、そして証言者を整理して置こう。
〔1〕横山エンタツ」二~千歳家今男「ジゴマ」(横山エンタツ
〔2〕花菱アチャコ」二~浮世亭夢丸「快漢ロロー」(花菱アチャコ本人)
〔3〕浪花千栄子」四 ~菅原家千代丸「?」(杉浦エノスケ
 これについて〔2〕を書いた時点での長沖氏の見解を見て置こう。75頁5~9行め、

 私はエンタツの項でジゴマと書いたが、エンタツはたしかにそう言ったと記憶するものの私の/聞きちがいかエンタツの記憶ちがいか、またエンタツアチャコの高座を見たのは吉本へ変って/今男と組んでからのことだから同じ趣向でも演題がロローからジゴマに変っていたのかもしれな/い。大八会で千日前の愛進館に出ていたアチャコは、やがて夢丸と別れて吉本に移り、今男と組/んで万歳をやることになる。‥‥


 すなわち、長沖氏の聞き違い、横山エンタツの記憶違い、時期の違いの3つの可能性を並記するのだが、〔3〕杉浦エノスケの証言を追加して考えるに、これはアチャコの得意芸で、横山エンタツと組むまで、相方を変えても演じ続けていたのであろう。すなわち③時期の違いと判断するのが良さそうである。
 時代順に並べると、〔3〕〔2〕〔1〕となる。すなわち、〔2〕花菱アチャコの吉本入社の年の辺り、〔3〕横山エンタツの吉本入社の年の頃、と云うことになり、本書では分かりづらいのだが、ここでまた安易に Wikipedia の各人の項を参照するに、〔2〕大正14年(1925)、〔3〕昭和5年(1930)と云うことになる。
 〔1〕6月7日付(7)に引用した「花菱アチャコ」の「二」節めにあったようにアチャコが初めて組んだ相方なのでそれ以前、「三」節めには72頁1~15行め、

‥‥。十四、五/歳で新派にはいり、喜劇に転じて神戸の聚楽館で興行していた鬼笑会へはいったことは前に述べ/た。そこで一年ほどいて姫路、奈良、京都など、その間、こうした一座の常で離合集散を繰り返/しながら巡業していたらしい。そして、兵隊検査が奈良の木辻の中井座にいたときだというから/二十一歳まで五、六年は下廻りとして関西一帯を巡業していたわけである。その後、振出しの一/座に馴染みの深い神戸にもどり新開地の大和座に立籠り六年間いたという。だから、アチャコと/いう芸名が生れたのは、その時代のことと推測される。
 「この一座に、後に吉本でコンビになった今男君が立女形でいてました」
 と、アチャコは語る。
 「その後、ゴタゴタがあって、大和座で一座が解散になり、僕は永年コンビであった千代丸と/いうひとと別れ、堀越一蝶というひとが座長格で、またぞろ近県を巡業することになったのです/が、その一座に横山エンタツ君がはいってました」
 ゴタゴタというのは、どうやらアチャコの女性関係にかかわりがあるようだが、それは後に触/れよう。
 「その頃、横山君は横山太郎と言うてました」

とある。花菱アチャコ大正6年(1917)の春か夏、数えで「二十一歳」のときに徴兵検査を受けているはずで、横山太郎だった横山エンタツはその後、東京に出て大正12年(1923)9月1日の関東大震災に遭っている。そうすると「六年間」と云うのが微妙になって来るのだが、この辺りの辻褄を合わせるのは相当厄介で、他の文献を見るといよいよ訳が分からなくなる。そこで最後に、本書にもう1箇所ある菅原家千代丸についての記述を引いて、切り上げることとしよう。
 前回触れた「鯉奴という芸者」と結婚した件、「花菱アチャコ」の「四」節め、80頁11行め~81頁2行め、

‥‥。前にも触れた神戸の大和座の常打ち時代、恋仲になって彼女の家に同棲して/いた鯉奴という芸者、この女性にはアチャコもずいぶん惚れていたようで、この鯉奴のことが原/因で七年余りもコンビであった千代丸と別れ刃傷沙汰まで起こりかけたらしい。一座が九州を巡/業することになり、その巡業は無事終ったらしいが、三原まで戻ってくると彼は鯉奴に逢いたく/て矢も楯もたまらなくなりドロンをして神戸に帰り彼女の家に潜伏していた。そこへ千代丸が剃/刀をもって殺してやると飛び込んできた。エンタツの横山太郎がその一座にいた座長の一蝶とい/【80】うのが仲にはいり解決はついたが、そのせいで千代丸と別れる羽目になったというのである。と/ころが、この話にも後日談がある。‥‥


 後日談というのが前回引いた下関に逃亡して浮世亭夢丸とコンビを組むことになった件である。――「エンタツの横山太郎が」は「エンタツの横山太郎と」にでもしないと文意が通じないが初出はどうなっていたのであろうか。
 これは関東大震災より前、それまで「七年余りも」と云うのであるから、大正4年(1915)頃から大正11年(1922)頃と一応の見当は付けられようか。――刃傷沙汰の件を読むまで、浮世亭夢丸と同じく男だろうと何となく思っていたのだが、この行動は悋気(嫉妬)に基づくもののように思われるから女性のように思えて来た。

 このCDに収録されているSP盤の、菅原家千代丸の声を聞けば分かるのだけれども。
 そこで藝名の由来だが、〔3〕杉浦エノスケの「アチャリー」説について6月9日付(09)に見たように、長沖氏は「これが恐らく正しいのだろう。」とコメントしているが、紙幅の都合もあってのことであろう。何故「アチャリー」なのかが分からない。それこそ「アッチャコッチャ」の「アチャ」なのかも知れないが、当人が違う説明をしていることも、気になるところである。(以下続稿)