瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(6)

横山エンタツの出生地(3)
 連載の第【8】回、「花菱アチャコ」の「二」節めに引用される、藤沢桓夫の2通めの手紙を見て置こう。67頁10行め~68頁1行めに1字下げ、前後1行空けで引用されている。

 ……留サン吉田留三郎が言うことには、阪本勝氏が何かに書いていたのによると、阪本氏/の父君――たしか文平という名で、泊園書院門下――が医者で、尼崎病院長だったエンタツ氏/の父君と知合いで、お互いの息子について話し合ったことあり、エンタツ氏の父君が「うちの/息子は漫才師でいやはや」と嘆いたというのだが、吉田説では、エンタツさんは、姫路生れで/【67】尼崎育ちではないかと言うのです。云々……


 吉田留三郎(1906~1978.5.25)はここでは藤沢桓夫の質問に答える形で間接的に長沖氏に協力する形になっているが、この連載の最後、「浪花千栄子」の「四」節めでは、179頁2行め「吉田留三郎の教示」8行め「吉田留三郎の説明」180頁6行め「吉田留三郎の博識」10行め「生き字引吉田留三郎」183頁14行め「吉田留三郎の教示」16行め「さすがの雑学博士」云々と、直接長沖氏の質問に答えている*1
 阪本勝(1899.10.15~1975.3.22)は尼崎市長(1951.4.25~1954.11.13)兵庫県知事(1954.12.12~1962.10.17)等を務めた政治家。
 泊園書院は藤沢氏の曾祖父藤沢東畡(1794~1864)が大坂に開いた漢学塾で、祖父の藤沢南岳(1842~1920)、父の藤沢黄坡(1876~1948)と継承されている。
 長沖氏はこの手紙の引用に続けて、68頁2~6行め、

 阪本勝は、この手紙をもらった後に『朝日新聞』に同じようなことを書いていた。尼崎育ちと/いうのは確実になった。横山エンタツは、その性格からして、父に迷惑をかけたくないという気/持ちが強かったから尼崎を伏せていた節はじゅうぶんに想像できるが、生れは姫路という吉田留/三郎説も捨てがたい。というのが、エンタツがまんざら根も葉もないことを言わないと信じるか/らだ。

と述べて、段落を変えて7行め「アチャコに戻ろう。‥‥」とこの長い脱線を切り上げている。
 Wikipedia横山エンタツ」項は、この辺り、

兵庫県有馬郡三田町横山[2]で生まれた。祖父は元藩医で、父も医師であった。近所に軍人が多い環境で、父も軍医になって日露戦争へ出征したため、祖父母のもとに預けられる。終戦後、復員した父は姫路市で医院を開業。それにともない一家は姫路に移り住んだ。
旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、「馬賊になる」と言って家出。大正の初め頃、ソウル(京城)に住む叔父を頼り朝鮮へ渡ったが、「面倒をみられない」と言われ、叔父宅での居住を断念。その後、職を転々とした(このころ関西大学の夜間部に通ったという説もある)。演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていたこともあったという。

とかなり異なっている。日露戦争後に姫路に移り住んだのだとすれば、横山エンタツは三田町(現・三田市)で学齢に達しているはずで、わざと三田出身であることを伏せていたことになる。
 しかし、これでは何故姫路の人間が伊丹中学に入学したのかが分からない。長沖氏が述べているように尼崎に住んでいたからで、阪本勝も萩原淳兵庫県川辺郡尼崎町(現・尼崎市)出身である。――この伊丹中学中退と云うのも、「横山エンタツ」の「二」節め冒頭、33頁9行め~34頁3行め、

 横山エンタツは出身とか自分の周辺については他人に語りたがらないひとだった。彼の父は軍/医であったという。そして、継母との折り合いが悪く中学を中途退学して家を飛び出したとも聞/いた。いずれも本人から直接に聞いたことではない。が、私が彼の自伝を口述筆記したとき、次/の言葉を私は書きとめている。

 ぼくの父は官吏です。今日も官吏をやっています。その父は、いまだに、ぼくの顔を見ると/「わしはお前を官吏にしたかったんじゃが……」と愚痴めいた言葉を溜息とともにはきます。/漫才のエンタツとなって成功するより、やはり、わが業を継いでほしかったのでしょう。四十/面をさげたぼくも、そのときは、いささかセンチになります。

とぼんやりした記述があるのみ、長沖氏や藤沢氏が把握していない情報である。この長沖氏が「口述筆記した」「自伝」に関する説明はこの少し後にあって、既に6月4日付(4)に引用してある。
 Wikipedia には「出典」として「・長沖一『上方笑芸見聞録』九芸出版、1978年」が挙がるが「脚注」には活用されておらず、別の「出典」が並んでいる。本書以降に明らかになった事柄が多いようだが、上に引用した箇所には脚注もなく*2、下手をすると本書の記述が全体の下敷きになっていると勘違いされかねない。とにかく尼崎育ちであることは本書を出典として、Wikipedia に加筆するべきだろう。(以下続稿)

*1:索引が作ってあるから掌を指すように用意出来るのである。

*2:[2]は「2.^ 現在の三田市横山町(〒669-1534)、南が丘(〒669-1535)。横山駅が所在する。」と云うもので、何に拠ったかを示したものではない。