瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(7)

花菱アチャコの藝名(1)
 昨日まで、エンタツアチャコ横山エンタツの出生地について、本書の説を見て来た。まづ「放送朝日」昭和48年(1973)4月号掲載の第【4】回「横山エンタツ」の「二」節めで取り上げられ、ついで8月号掲載の第【8】回、相方であった「花菱アチャコ」の「二」節めで「唐突だが忘れないうちに」として2頁弱、藤沢桓夫が2通の書簡で知らせて来たことを紹介しているのである。
 その前後、「花菱アチャコ」の「二」節めの本題は何かと云うと、花菱アチャコの屋号と藝名について、である。
 冒頭から抜いて置こう。64頁11行め~65頁8行め、

 花菱アチャコの屋号花菱は吉本の家紋だから、私は吉本の子飼いを意味しているように考える。/しかし、もしアチャコが吉本へはいる以前から花菱という屋号を名乗っていたとしたら話は別だ。/ただ、アチャコというひとはその柔順そのものの性格からであろう、一貫して吉本に従順であっ/た。そして、彼自身もしばしば語ったように、とくに林正之助に可愛がられた。ときに御法度で/【64】あった闇の余興に走り発覚して自分があわてふためいたなどということもあったが、それも愛嬌/といったほどのものだった。その点、ことの内容はつまびらかにしないが横山エンタツの方は、/しばしば、会社といざこざを起こしていた。だから、私には吉本子飼いだからと思えるのである。
 ところが、アチャコという芸名となると、どうしてこんなオカシなオカシな芸名が生れたのか、/いまだに納得がいかぬだけに興味がつきないのである。
 大阪弁で、アベコベのこと、または反対のことを「アッチャコッチャ」と言う。また、チョコ/マカとよく動きまわる人を「ようアッチャコッチャ(あちこち)する」と言う。
 なるほど、アチャコという人物はマメだ、じっとしていられないタチらしい。‥‥


 そしてそのチョコマカぶりを2例ほど紹介して、14~16行め、

 昔から、よくアッチャコッチャするので、それがつづまってアチャコになったという。これは/どうも造り話の気がしてならないのだが、ところで、私がアチャコ自身から聞いた芸名の由来を、/いや、順序として彼の出生から聞いたままをかいつまんで話そう。【65】

として、花菱アチャコの実家について述べ、ここで6月4日付(4)に引いたように、アチャコの母の話から横山エンタツの出生地について脱線するのである。
 この実家の件も色々と問題があるのだが、今は藝名について述べることとしよう。
 さて、6月6日付(6)に触れたように68頁7行めから、本題の「アチャコに戻」るのだが、そこで滝川小学校入学、九条第一尋常高等小学校に転校して高等二年卒業と云う学歴について述べ、それから芸能界に入ることになった事情が説明される。12行め~69頁11行め、

‥‥。卒業すると彼は遠縁にあたる木村亀吉という材木屋へ奉公に出た。/もともと芝居好きで小学校時代から、ちょくちょく芝居小屋へ足を運んでいた彼は、奉公先の同/年輩の息子がまた芝居好きとあって、材木場で真似をしたり、木戸銭が高くて道頓堀の芝居は見/られないともっぱら千日前の小屋へ入りびたり、折りから春日座という小屋の県妻吉一座が『己/【68】ケ罪』という菊池幽芳の家庭小説の劇化されたものに小学生のエキストラに出て主人に見つかっ/た。結果は、それほど芝居が好きなら役者になれと主人に言われ、二つ返事で亀吉という人が贔/屓にしていた同じ千日前の敷島館で打っていた山田九州男の一座にいれてもらった。九州男は山/田五十鈴の父である。そして座長のお茶汲みをしながらもらった芸名が東明幸四郎という。
 しかし、座長から新派では男がよくないと出世はできない。お前の顔なら喜劇向きだから喜劇/なら出世できるかもしれない。いっそ喜劇界で苦労してみる気はないかと言われ、座長の紹介で、/当時、神戸新開地の聚楽館にいた鬼笑会にはいった。一年ばかりで座長が抜け、座長なしの一座/でドサ廻りをつづけたが喜劇だけでは客が来ず、幕合に万歳を入れたりした。その万歳の菅原家/千代丸というのが相方にドロンされたので、やってみないかということになり、万歳を始めた。/喜劇をやったり万歳をやったりしてドサ廻りを続けているうちにアチャコという芸名が生れたと/いうのである。本人に語ってもらおう。


 これに続いて引用されている本人の証言(69頁12行め~70頁3行め、5~12行め)を引くと長くなるから、ここでネット上でこの件につき最も参照される可能性の高いと思われる Wikipedia花菱アチャコ」項の、この辺りの記述を見て置こう。

‥‥、1913年に15歳で新派の山田九州男山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である[1]。「アチャコ」の由来について、アチャコが決まって説明していたのは「鬼笑会」時代に先輩役者からつけられたあだ名「アーチョン」が転じた、というものである[1]。幕切れに拍子木を打つ際に上手くいかず、先輩役者の「アッ!」の掛け声の合図で「チョン!」と打つようになったことからついた名という。これには異説もあり、マメな性格で「あちゃこちゃする」からアチャコとなったとも、長崎県の工芸品・古賀人形の一種「あちゃさん」にアチャコの顔が酷似していたためともされる[1]。なお、「コ」の字がつくために、名乗り始めたころはよく女性と間違われたという。徴兵検査を受ける頃には、奈良瓦堂町の中井座に在籍していた[2]。


 ここにある「脚注」の[1]と[2]がは次の通り。

1.^ a b c 祖田浩一(編)『昭和人物エピソード事典』(東京堂出版、1990年)p.227
2.^ 上方笑芸見聞録, p. 72.


 [3]と[4]はここに関わらないので省略。本書の版元・刊年がここにないのは、別に「参考文献」として1点のみ、

長沖一『上方笑芸見聞録』九芸出版、1978年。

と挙がっているからである。なお本書72頁4行めの原文は「‥‥、兵隊検査が奈良の木辻の中井座にいたときだというから/‥‥」で、中井座はドサ廻りの巡業先であって、劇場と専属契約をした訳ではないのだから「在籍」とは妙である。
 それはともかくとして、Wikipedia ではアチャコの由来について3説挙げ、いづれも『昭和人物エピソード事典』を典拠としているのだが、うち「アーチョン」説が69頁12行めから70頁12行めまで1頁分費やして述べてある本人の説明*1で、「アチャコチャ」説は上に引用した通りそれより前に本書に取り上げられている。そしてもう1つの「あちゃさん」人形説だが、これもやはり本書に見えているのである。すなわち、Wikipedia のこの辺りの記述はほぼ丸々本書に由来しているので、敢えて『昭和人物エピソード事典』を典拠として挙げる必要はないと思うのだが、実は本書にはもう1つ、アチャコの由来説が載っているのである。それから「あちゃさん」人形説も、ここに他の2説と同列に扱うには問題がある。次回、この点について確認して見よう。(以下続稿)

*1:本書では70頁10~11行め「‥‥。アアッ、チョン、アチョン、アチョ/ンコ、アチャコと、‥‥」変化したとする。