瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

池内紀『昭和の青春 播磨を想う』(3)

 昨日の続き。
 「昭和の青春」の諸篇を眺めていると、最後がやや尻すぼみになっているような印象が拭えない。しかしながら最後、【14】篇めが「終わりと始まり」と題しているところからして、急に打ち切りになったのではないだろう。
 しかしながら、【12】「ちいさな山」も【14】と同じような著者本人である「私」の回想で、その間に挟まれる【13】「頂上石」は、やはり著者本人と思しき「私」と、中学・高校と同じ学校に通った「佐藤進一」との交遊について述べたもので、中学二年の臨海学校で訪れた家島諸島の西島にある頂上石が絡めてある。「佐藤進一」は実在のモデルがいるとしても仮名で、実は大半がフィクションなのかも知れないけれども、――最後の3篇がこのように「私」の物語になっているのが、それまでの播磨の地場産業、マッチや淡口醤油、塩田を題材とした諸篇に比して、どうしても熱量の低下を感じさせるのである。
 それかあらぬか、連載終了から20年近く放置され、歿後になって高校同期の掲載誌編集長・中元孝迪によって丁度20年後に漸く纏められることになったようだ。もちろん、何か刊行を躊躇させる理由があったのではなくて、単に1冊に纏めるには分量が少なかっただけかも知れない。尤も、中元氏の「あとがき」によれば、193頁7~9行め、

 バンカルは創刊以来、誌齢を一〇〇号…一一〇号と刻んでゆくが、池内作品は、二、三の特別/号を除き、毎号、欠かさず誌面を飾った。連載のほか、今回収録した不定期のエッセーも数多/く寄稿いただいた。‥‥

とのことだから、分量だけなら「BanCul」への寄稿を幾つか集めれば優に何冊分かになっただろうと思うのだけれども。
 それはともかく、中元氏は「BanCul」寄稿の中から、「昭和の青春」の最後の3篇に内容的に共通する以下の4篇を選んで「播磨を想う」と題して抱き合わせることにしたようだ。
【15】バスに揺られて海山ゆけば(158~164頁)2005年春号 No.55
【16】姫路駅三代(165~172頁)2013年春号 No.87
【17】駅が教えてくれたこと(173~181頁)2015年春号 No.95

【18】昭和三十年(182~189頁)2002年春号 No.43
 【16】【17】【18】の3篇は、やはり『記憶の海辺』の原型になっている。――池内氏は健筆だったけれども、それだけに同じ内容、或いは一部が重なる文章が少なくないようだ。偶々目に入ったものを典拠を示さずに取り上げたりすると、後年の別の本には少し違ったことが書かれていた、などと云うことになりかねない。その意味で、ちょっと厄介な著者である。尤も私は池内氏の本にこれで4冊ざっと目を通しただけだから、とてもその任にないのだけれども、『記憶の海辺』と本書の関係についてはメモして置きたいと思っている。(以下続稿)