瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

池内紀『記憶の海辺』(3)

池内紀の居住歴(5)出身地①
 池内氏が上京するまで過ごしていた集落については【2】「38度線」に詳しく述べてあります(以下、各章の副題は略します)が、集落名が何処にも書いてないのです。しかしながら、本文冒頭、21頁1~3行めに、

 里の山を八丈岩山*1といった。多少ともいかめしい名前だが、標高二〇〇メートルにみたない。/西国の山におなじみのお椀を伏せたような丸いかたちをしている。山頂に大きな岩がとび出して/いて、それがこんなたいそうな名前がついたのだろう。ごく小さな山だが、‥‥

とあることを手懸りにして、「姫路 八丈岩山」で検索すれば、容易に特定することが出来ます。
 尤も、池内氏の出身地が「姫路」市と云うことも本文には【3】「ネヴァーランド」まで、明示されておりません。それまでは【1】「はじめに」の4頁16行め~5頁6行め、

 生まれは日本列島の西かた、瀬戸内海に面した城下町である。そこで十八歳のトシまで過ごした。【4】
 旧名を播磨*2といった。播州*3であって、地元では「播州人」などと称している。お国言葉は播/州弁。関西言葉の一つだが、温暖な気候のせいか、やわらかい調子の関西弁を、さらにやわらか/く丸くしたぐあいで、全体にノンビリしており、どうかすると、まのびして聞こえる。
 生きやすく、暮らしいいところなのだ。瀬戸内の海の幸、播州平野の米、背後の山あいからの/山の幸、それに川の幸が加わる。過分なまでに恵まれている。かてて加えて「天下の名城」と呼/ばれる城をもつ。豊臣秀吉が‥‥

のように、分かりきっているのにわざわざ暈かしています。――少々抵抗があるのは、池内氏の生れた集落が、姫路城の近く(1.5km程)ではあるのですが、所謂「旧城下町」ではない、近郊の農村であることで、私はこの辺り、2016年2月25日付「井上章一『京都ぎらい』(1)」や2020年1月14日付「森川直司『裏町の唄』(14)」に述べたように、やはり区別して考えるべきだと考えております。
 しかしながら、池内氏が生れる前の昭和11年(1936)に兵庫県飾磨郡安室村は姫路市に併合されておりますので、奥付の上の「著者略歴」冒頭「1940年、兵庫県姫路市生まれ。‥‥」で間違いはないのですけれども。尤も、後述するように、池内氏もそこははっきり区別して書いています。
 それはともかくとして、姫路城の北西2km弱にある、姫路市新在家本町6丁目の八丈岩山(172.8m)が「里の山」と云うのですから、池内氏が生れたのはその東南東麓にある「新在家」集落に間違いありません。現在、八丈岩山の周囲は宅地開発されて住宅地に取り囲まれていて、何処が旧来の村落なのか判別しづらくなっているのですが、谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「姫路」で検索するに、宅地開発される前に八丈岩山の麓に発達した集落は新在家だけなのです。現在の新在家本町3丁目の北部(7,9~12番)と4丁目の南部(1~5番)に、大体当っています。真宗寺と観音寺、大歳神社があり、集落の西端には内池と云う小さな池があります。
 この集落の様子を、池内氏は次のように述べています。21頁6~8行め、

 山腹に小さな出っぱりがあって、麓にかけて、ゆるやかな傾斜をとっている。そこに五〇戸あ/まりの集落がへばりついていた。社会的な分類では農村にあたるのだろうが、住人にとっては半/ばがた山村だった。それほど生活を山に負うていた。‥‥


 「出っぱり」というのは集落の西南西、古い地形図で見ると南北に長く標高70mの等高線の高まりになっている、現在の新在家本町5丁目6,7,10,11,13番辺りの、八丈岩山から南々東に延びる尾根の端でしょうか。それとも集落の北、現在の新在家本町4丁目7番27号の竈神社のある辺りの、やはり標高70mの等高線の小突起のことでしょうか。31頁14~15行め、

 北の山裾から流れ出る水が、何本かの用水を兼ねた小川になっていた。釣るほどの深みはなく、/網ですくった。夏になると「かいぼり」をした。‥‥

との回想からすると、北にあった突起を指しているようです。確かに今でも、元の集落の西の外れに沿うように北から南へ、幅が1mもないような、柵もない水路が流れております。
 集落の内側の様子は、30頁5~14行め、

 鉄工所と米つき場と結核病院とサンマイ、この東西南北の境界のなかの五〇戸あまりの集落が、/さしあたり自分たちの世界だった。集落のほぼ中央に大歳神社があって、これを境にカイチ(垣内)が分かれていた。北は北ガイチ、南は南ガイチ、西は西ガイチで、東ガイチはなかった。古/い米つき場と寺のある南がまずひらけたのだろう。南には大きなつくりの庭つきの家が多く、北/と西野地区は概して小ぶりで、庭のかわりに猫の額のような畑をそなえていた。戸数がふえるに/つれて西にひろがり、そのあと、サンマイのある北にものびていったと思われる。南・北・西の/カイチに微妙な区別があって、もちまわりの行事であれ何であれ、まず南から始まった。
 大歳神社の秋祭りには獅子舞いが演じられた。子役の演目があって、地区の子どもに割りあて/られる。いい役はおおかたが南ガイチに配分されていて、適任者がいない場合、まず西に、つい/で北にまわされた。‥‥

と描写されています。米つき場や鉄工所や病院、そしてサンマイについては前後に少々詳しい記述がありますが、割愛します。(以下続稿)

*1:ルビ「はちじょうがんざん」。

*2:ルビ「はり ま 」。

*3:ルビ「ばんしゅう」。