昨日の続き。
・『荘子』雜篇盗跖第二十九(2)
友人の柳下季の弟・盗跖を正道に戻そうと、柳下季の止めるのも聞かずに顔回と子貢を供に連れて盗跖の許に出向いた孔子が、しょうもないおべんちゃらを言って盗跖を怒らせ、十倍返しくらいの反論を喰らって逃げ帰るという話なのだけれども、その半ばに、高徳とされる君主6名、賢士とされる6名、忠臣*1とされる2名を挙げて批判する件がある。その賢士の中に尾生の名が見える。
まづ、金谷治(1920.2.20~2006.5.5)の校訂本文を示して置こう。岩波文庫『第四冊』107頁14行め~108頁6行め、灰色太字は先学の説に従って補った字。
世之所高、莫若黄帝、黄帝尚不能全徳、而戦涿鹿之野、流血百里、尭不慈、舜不孝、禹偏枯、湯/放其主、武王伐紂、文王拘羑里、此六子者、世之所高也、孰論之、皆以利惑其真、而強反其情性、/其行乃甚可羞也、世之所謂賢士、莫若伯夷叔斉、伯夷叔斉辞孤竹之君、而餓死於首陽之山、骨肉/【107】不葬、鮑焦飾行非世、抱木而死、申徒狄諌而不聴、負石自投於河、為魚鼈所食、介子推至忠也、/自割其股、以食文公、文公後背之、子推怒而去、抱木而燔死、尾生与女子期於梁下、女子不来、/水至不去、抱梁柱而死、此四子者、无異於磔犬流豕、操瓢而乞者、皆離名軽死、不念本養寿命者/也、世之所謂忠臣者、莫若王子比干伍子胥、子胥沈江、比干剖心、此二子者、世謂忠臣也、然卒/為天下笑、自上観之、至于子胥比干、皆不足貴也、丘之所以説我者、若告我以鬼事、則我不能知/也、若告我以人事、者不過此矣、皆吾所聞知也、
次に、金谷氏の書下し文を、一部平仮名にしている漢字をそのままとし、現代仮名遣いを歴史的仮名遣いに改め、送り仮名を一部省いて示す。108頁7行め~109頁4行め、
世の高しとする所は、黄帝に若くは莫きも、黄帝すら尚ほ徳を全うする能はずして、涿鹿の野/に戦ひ、流血百里なりき。尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯、湯は其の主を放ち、武王は紂を伐ち、/文王は羑里に拘はる、此の六子は、世の高しとする所なり。之を孰論するに、皆利を以て/其の真を惑はして、強いて其の情性に反く。其の行乃ち甚だ羞ずべきなり。
世の所謂賢士は、伯夷・叔斉に若くは莫きも、伯夷・叔斉は孤竹の君を辞して、首陽の山/に餓死し、骨肉葬られず。鮑焦は行を飾り世を非り、木を抱いて死す。申徒狄は諌めて聴かれず、/石を負ひて自ら河に投じ、魚鼈の食らふ所と為る。介子推は至忠なり、自ら其の股を割きて、以/て文公に食らはしむるも、文公後に之に背く。子推怒りて去り、木を抱いて燔死す。尾生は女/子と梁下に期し、女子来らず。水至るも去らず。梁柱を抱いて死す。此の四子は、磔犬流豕、/瓢を操りて乞ふ者に異なる无し。皆名に離り死を軽んじて、本を念ひ寿命を養はざる者なり。
世の所謂忠臣は、王子比干・伍子胥に若くは莫きも、子胥は江に沈められ、比干は心を剖/【108】かる。此の二子は、世に謂ふ忠臣なり。然れども卒に天下の笑ひと為る。
上より之を観て、子胥・比干に至るまで、皆貴ぶに足らざるなり。丘の我に説く所以の者、/若し我に告ぐるに鬼事を以てすれば、則ち我は知る能はざるなり。若し我に告ぐるに人事/を以てすれば、者ち此に過ぎず。皆吾が聞知する所なり。
訳まで全て抜いていては長くなるので、尾生のところと、同類についての盗跖の論評だけを見て置こう。111頁1~5行め、
‥‥。尾生は女と橋の下で会うことを約束し、女が/来ないので水かさが増えてきてもたち去らず、橋脚に抱きついたままで溺れ死んだ。これら〔鮑/焦以下〕の四人は、魔除けにされた張りつけの犬や祭りに使われた水中の豚や、あるいは瓢を手に/して物乞いをする者と、変わりはない。いずれも世間的な名目にとらわれて生命を粗末にし、本/来のあり方をよく考えて寿命を養うことをしなかったものどもだ。*2
確かに仰有る通りです、と腑に落ちて、どうも私の尾生のイメージは、まだ黄濁した泥水に足許を洗われながら、全身泥に塗れ、流れて来た草が脚や腕に絡まったまま、それでも橋柱に爪を立てて抱きついたまま必死の形相で死んでいる、それを人々が覗き込んで見て、何故あんなところであんな風に死んでいるのだろう、と不審に思いながら話し合っている、と云った按配なのである。
芥川の小説のように「橋の下の尾生の屍骸を、やさしく海の方へと運んで行つた」りはしない。屍骸が流されたりしようものならそもそも行衛不明になったと云うだけで、ただ相手の女だけが真相を察しつつも黙っている、と云うことになる。こういう相手にのみ秘密を強いて負担を掛ける死に方を、私は好まない。(以下続稿)