瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(11)

反町茂雄『一古書肆の思い出』2 賈を待つ者(3)
 少し飛ばして「稀書を、ポツポツと」の項の最後の段落を見て置こう。①121頁1~5行め②127頁1~6行め、要領は一昨日に同じ。

 昭和十五年を限りとして、赤堀さんからのハガキは、いつからとはなく届かなくなりました。|ズー/ッと途絶*1えました。多分この間に病床につかれ、間もなく遠逝されたのでしょう。七、八|年もの後に、/終戦直後の大混乱のさ中に、あの小柄のやせた、控えめで物しずかな奥さんが、|小さな風呂敷包みを/かかえて、突然に小荘を訪ねて来られました。そして焼け残った翁の遺品|として、思いがけない重要/な国語学の新資料を一つ、譲って下さった。それはやがてこの先に、|その年度の所で記しましょう。


 戦後、未亡人が弘文荘を訪ねて来たことで、反町氏は赤堀氏が戦中に死去したことを知る。そして赤堀氏からの葉書が昭和15年(1940)を最後に来なくなっていたことと思い合わせて、上記のように推測するのである。
 しかしながら、赤堀氏は昭和15年以降も言論活動を続けていた。いや、それ以前からそうだったのだが、それは反町氏が目にするような雑誌ではないから、そもそも反町氏にとっては隠者の元を訪ねるような気分だった訳で、葉書が来なくなってしまえばもう反町氏の視野に赤堀氏は、全く入らなくなる。
 ここでこのまま、この未亡人来訪の件が書かれた「その年度の所」に進みたいところだが、戦後は次の巻になるので、先を急がず次回に回すこととしよう。
 ここでは、この未亡人の素姓について確認して置きたい。
鹿島町史編さん委員会 編集『鹿島町史』第一巻(昭和四十七年三月三十一日発行・鹿島町・8+499頁)
 茨城県鹿島郡鹿島町は現在の鹿嶋市。303~496頁「第四章  歴   史」458~481頁「鹿島八景集の作家とその周囲」に、『鹿島八景集』には関係していないが「その周囲」の人物として鹿島則文(1839.正.十三~1901.10.10)の墓碑銘が紹介されている。なお末尾(481頁下段25行め)に「(織田鉄三郎)」と担当者名が入る。今後参照することもあるので全文を引用する。462頁上段6~20行め、

  從四位鹿島則文之墓
先考諱則文。字公祜。称矗之助。號櫻宇。姓中臣鹿島連。世為鹿島大/宮司。王父諱則瓊。取幕臣筑紫孝門第三子。配女為嗣。諱則孝。先考/其第一子也。受業吉川天浦。伊能頴則等。既長遊江戶。入安井息軒門。/當此時。外交論起。海内騷然。志士争唱尊攘大義。先考陰與之通聲息/遂為幕吏所忌。慶應中。被執。下獄推訊數次。流八丈島。明治二年。/遇赦還家。五年。任少宮司。叙正七位。尋進大宮司。十七年。擢任神/宮宮司。移家伊勢。廿三年。以掌式年遷御事功。進從五位。廿八年。/叙正五位。卅一年。神宮有火。引責辭而還。卅四年。特叙從四位。十/月十日。以病終於家。享年六十三年葬於三笠山先塋。先考平生。深重/節義。尊名分。以發揚皇道振張国教。為終生任。然自奉甚薄。又無/意於利達。性無他嗜好。只閑坐一室。左右圖書。其書積至三萬冊。傳/于家焉。配植松氏。生三男二女。則泰。敏夫。淑男。女一適赤堀又次郎。/一殤。今茲四十四年。値十廻忌辰。樹碑。勒其梗概以表追慕之誠。
明治四十四年十月    男則泰撰。敏夫書。


 最後の方に赤堀氏の名が見える。原文に続けて21行め~下段12行めに書下しがあるが下段11行め「‥‥、女一は赤堀又次郎に適き、‥‥」とある。すなわち赤堀未亡人は鹿島則文の娘なのである。
 尤も、このことは周囲の人は当然知っていただろうし、研究書にも見えている。そのことは反町氏が『一古書肆の思い出3』に述べている「重要な国語学の新資料」の伝来にも絡んで来るので、これもそのときに述べることとしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「と だ 」。