一昨日からの続き。
・『荘子』雜篇盗跖第二十九(3)
「盗跖篇」には「一」孔子と盗跖の問答の他に2話「二」子張と満苟得の問答(115~123頁)、「三」无足と知和の問答(124~133頁)が収録されている。その「二」にも、似たような文脈で尾生が持ち出されているのである。
岩波文庫『荘子 第四冊(雑篇)』116頁2行めの註*1に「一 子張――孔子の弟子。道義的な儒家の立場を代表する。」とあって実在の人物(顓孫師)を使っているが、他の3名は架空、満苟得は116頁2~3行めの註に「二 満苟得――少しでも獲得して満足すると/いう意味。欲望のまま利に走る立場を代表する。」と解説されている。
それでは岩波文庫の金谷治の校訂した当該箇所の原文を見て置こう。119頁16行め~120頁1行め、
‥‥、比干剖心、子胥抉眼、忠之禍也、直躬証/父、尾生溺死、信之患也、鮑子立乾、申子自埋、廉之害也、孔子不見母、匡子不見父、義之失也、/【119】此上世之所伝、下世之所語、以為士者、正其言、必其行、故服其殃、離其患也、
金谷氏の書下し文を前回と同様に手を入れて抜いて置こう。120頁15行め~121頁1行め、
比干は心を剖かれ、子胥は眼を抉らるるは、忠の禍なり。直躬は父を証し、尾生は溺死するは、/信の患ひなり。鮑子は立ちながら乾き、申子は自ら埋まるは、廉の害なり。孔子は母を見ず、匡/子は父を見ざるは、義の失なり。此上世の伝ふる所、下世の語る所、以て士たらんとする者は、/【120】其の言を正し、其の行を必す。故に其の殃に服し、其の患ひに離るなりと。
最後に「と」とあるのは、ここまでが満苟得の発言だからで、これがこの問答の結論になる。
金谷氏の現代語訳、121頁11~18行め、〔 〕は半角。
比干が殷の紂王に心臓をひきさかれ、伍子胥は呉王によって目をえぐりとられたのは、忠を尽/くしたための禍いである。直躬が父の盗みを証明し、尾生高が〔女との約束を守って〕溺れ死んだ/のは、信を守ったための災難である。鮑焦が〔木を抱いて〕立ったままで乾いて死に、申徒狄が/〔石を背負って〕自分で黄河に沈んだのは、廉潔を守ったための弊害である。孔子〔陳仲子?〕が母/に会わず、匡章が父に会わなかったのは、正義を守ったための過失である。これらはみな昔から*2/言い伝えられてきたことで、また後世の話題でもある。士人として認められようとする者は、そ/のことばを厳正にし、その行動を専一にするものだから、〔そのとらわれのために、このように〕/身の禍いをこうむり、害にあうことになるのだ。」
この現代語訳では「尾生」ではなく「尾生高」となっている。ここには註はないが、前回見た「一」に次のような註があった。110頁1~2行め、
六 尾生――微生とも書く。名は高。ば/かがたいことを「尾生の信」といって、よくひきあいに出される。
どこから「高」と云う名が出て来たのか、その説明はないが、ここに7月11日付(08)に見た『日本国語大辞典』の「尾生の信」項の用例『性霊集』と同じ「微生」が出て来る。つまり「微生高」と云う、他のことで知られている人物がいて、それがこの溺れ死んだ「尾生」と同一人物だと云うのである。――7月6日付(03)に見た『支那奇談集 第二編』は「‥‥。尾生とばかりで其名は伝わらぬが、‥‥」として、尾氏の某の意味で取っているが、実は(?)「尾生」もしくは「微生」と云う、複姓だったのである。(以下続稿)