・『第十二版人事興信録』上(昭和十四年十月十五日印刷・昭和十四年十月二十日發行・人事興信所)サ八六の4段組の1段め37行め~2段め7行め「齋藤知一郎 〈齋藤商會、昭和製紙各(株)社長/靜岡縣在籍〉」項の最初に家族の主立った面々を列挙して、8~12行め、
母 ち よ 慶應三、七生、靜岡、井出重次郎二女
妻 わかよ 明二九、一生、靜岡、渡井辰五郎五女
男 美 英 大五、四生、日本大學法學部在學
男 茂 美 大七、八生、早大商學部在學
女 うめ子 大一〇、二生、東京女子高等學園在學
とある。三男・四男・五男と弟3人は別記。この前後の版にも出ているであろうが八王子製紙を傘下に収めた頃の版を参照した。
すなわち長男・了英は当初「美英」、次男・滋与史は「茂美」であったのを改名している。
渡井重源はわかよ夫人の実家の出と云うことになるのであろう。叔母夫婦の会社に入り、その買収した八王子製紙に乗り込んで来た、と云った按配である。
渡井辰五郎は恐らく重源の祖父で、佐野小一郎 編輯『靜岡縣家歴鑑』卷一(明治二十七年十二月廿七日印刷・同 年同 月三十日發行・非賣品・望月幸次郎・題字+口絵+序+判例+三+九十七丁)の七十四丁表3行め~裏6行めに、
〇渡井辰五郎氏 駿河國富士郡富丘村外神ニ在リ其祖ハ平氏ヨリ出テ平氏滅/亡ノ後其族黨當地ニ來リ住セシト口碑ニ傳フル所ナリト雖𪜈年數ノ久シキ盛/衰興廢一ナラス隨テ古書舊記等モ徴スルニ由ナク加之明治十一年回禄ノ災ニ/罹リ家屋倉庫悉ク烏有ニ歸セシカハ其由緒經歴等ヲ詳知ス可カラス依テ近世/明瞭ナル分ノミヲ記スレハ寛政年中兵左衛門ナルモノアリ氏ハ文化十二年ヨ/リ文政二年ニ至ル時田村名主役ヲ勤ム後又天保三年再ヒ名主役トナル長男岩/松嗣ギ弘化二年外神村名主役ヲ襲フ後文久元年再ビ同役ニ撰ハル其年數前後/十有八年間之レヨリ前キ安政三年同郡北山村本門寺檀徒總代ニ撰バル嫡男嗣/ク是レ當代ナリ而シテ其履歴ヲ舉クレハ北山村本門寺檀徒總代タルヿ前代ノ/如ク明治十二年孔昭舍幹事トナリ十三年外神外壹ケ村學務委員拜命同年大宮/町外拾八ケ村道路會議員ニ當撰十四年吉原警察署大宮分署新築費ノ内ヘ金若/干ヲ獻シ其賞状ヲ受ケ十五年外神村宮原村戸長兼三十七學區學務委員拜命十/【七十四丁表】六年三月外神村外壹ケ村戸長トナリ準十七等拜命四月廿日十二等ニ進ム十七/年八月淀師大中里青木外神宮原五ケ村聯合會議員ニ當撰十八年外神村務係リ/トナル六年皇居炎上ノ際金若干ヲ獻シ十九年十二月其賞状ヲ賜ハル二十年一/月同郡大宮町外貳拾九ケ町村聯合町村會議員ニ當撰廿二年富丘村會議員ニ被/撰廿四年外神區長トナル又氏ガ北山村本門寺其他ヘ寄附セシ金額少カラス而/シテ氏ハ殖産興業ニ心ヲ注キ常ニ開墾ニ從事シ專ラ養蠶ニ勉勵スト云フ
とある江戸時代以来の名家で、北山本門寺の檀徒総代を代々務めていた。11月12日付(6)の最後に述べた臆断以上に、渡井家と北山本門寺との関係は深いので、慰霊碑も社長が自ら動いて建立した可能性が高いように思われるのである。
ところで、八王子製紙の名称が消えたのは戦時中で、富士市史編纂委員会 編纂『吉原市史』下巻(昭和五十三年三月十五日 印刷・昭和五十三年三月二十日 発行・非売品・富士市・10+927頁)153頁6~7行め「‥‥昭和一七年五月一三日勅令によって公布さ/れた「企業整備令」」9~10行め「をもとにして「製紙工業整備令」も発効し、製紙パルプ業界の戦時体制へ/の再編成がすす」んだ様が、続いて載る一覧、153頁13行め~160頁13行め「戦時企業整備令による県下製紙工場の整備と其の変遷」に纏められている。社名|所在地|資本金|代表者|新工場名|旧名|所在地|戦後に於ける変遷、の8つの枠に整理されているが、その156頁18~20行めに、
岳南工業(株) |吉原町今泉一三六 |五三・五/万円|渡井 重源|富士工場 |岳南製紙 |岳南製紙(株)工場に復元/二四年六月 大昭和製紙岳南工場 二/七年六月吉原工場
とあり、21行めは5~7枠め「|八王子工場|八王子製紙|八王子|」とあって、岳南製紙と八王子製紙が統合されて岳南工業になり、戦後、岳南製紙に復したが岳南(吉原)工場は親会社(?)の大昭和製紙の工場となったらしく、どうやら八王子工場のみが岳南製紙を名乗って、社長の渡井氏も11月12日付(6)に引いた昭和35年(1960)5月の座談会にあったように「私の方は八王子でございますが」と、八王子を拠点に活動していたらしいのである。(以下続稿)