瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(35)

・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(6)
 昨日の続き。――佐藤氏の「解題」は続いて、15行め~ⅲ頁2行め、

‥‥。それでも明治三十五年頃は「 (陸軍)中央幼年学校教授、東京帝国大学文科大学講師」の肩書/きがあり(『日本紳士録』第八版)早稲田大学書記の講師などを務めている。これらが現在の専任職に該当するのか不/明であるが、陸軍中央幼年学校の「明治三十六年度後期教授部授業日課表」国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードC10071645900)では、国語を教えていたことが解る。しかし、赤堀は明治三十九年九月に同職を「不適/任」に付き休職となる国立公文書館蔵「任免裁可書 任免第二十五巻」)


 これは石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)に「1943/陸軍士官学校教官」とあったことでその関係の資料に当たって発見したものであろう。もちろん昭和18年(1943)に陸軍士官学校教官であったとする資料には逢着しなかった訳である。
・第八版『日本紳士録』明治二十二年五月二十日第一版印刷・明治二十四年十二月二十日第二版印刷・明治二十九年十月三十日第三版印刷・明治三十年十二月廿七日第四版印刷・明治三十二年一月七日第五版印刷・明治三十三年六月三十日第六版印刷・明治三十四年四月廿二日第七版印刷・明治三十四年四月廿五日發   行・明治三十五年十二月廿七日第八版印刷*1・明治三十五年十二月廿九日發   行・定價金貳圓五拾錢・交詢社
 「東京の部 あ 之 部(粟、淡、赤)」五百八頁下段4人めに「赤 堀 又次郞 」とあってその下に割書で「中央幼年學校教授、東京帝國大學文/科大學講師、牛込區市谷田町二丁目/一●九」とある。符号については各頁小口側に「●印は所得税」とある。
 赤堀氏が東京帝国大学文科大学の講師であったのは明治33年(1900)7月までであったのでやや古い情報である。しかしこの前の版には出ていない。
・第九版『日本紳士録』明治二十二年五月二十日第一版印刷・明治二十四年十二月二十日第二版印刷・明治二十九年十月三十日第三版印刷・明治三十年十二月廿七日第四版印刷・明治三十二年一月七日第五版印刷・明治三十三年六月三十日第六版印刷・明治三十四年四月廿二日第七版印刷・明治三十五年十二月廿七日第八版印刷・明治三十六年十二月十五日第九版印刷・明治三十六年十二月十八日發   行・定價金貳圓五拾錢・交詢社
 「東京の部 あ 之 部(赤)」五百六頁上段15人めに「赤 堀 又次郞 」とあってその下に割書で「中央幼年學校講師、牛込區市ヶ谷田/町二ノ一●一〇」とある。
 「明治三十六學年度後期教授部授業日課表 陸軍中央幼年學校」は、修業年限2年の陸軍中央幼年学校本科の時間割表で「學年」は「第一學年」と「第二學年」、「學班」が組(クラス)で各学年「第九班」まである。これが縦に並び、横には「曜」日ごとに5齣ずつ、但し一時間目や第一時限等と云う呼称はなく「始業時刻」で「時 一|分十時一十|分十時十|時 九|時 八」の5齣を示す。水曜日と土曜日は午前のみ、また水曜日のみ「時 七」からだが第一学年は「自 習」である。子持枠の左に「備考 本表中 時文トアルハ 漢文ノ時文ニシテ 括弧内ノ數字ハ教室ノ番號ヲ示ス」とある。ここで赤堀氏の担当を確認して置こう。ただ、齣を始業時刻で示すのも煩いので⓪七時①八時②九時③十時十分④十一時十分⑤一時の丸数字で示した。
 まづ第一学年「國語」を月曜日②第三班(十三)③第九班(十九)④第八班(十八)⑤第一班(一)4齣、火曜日④第四班(十九)1齣、木曜日⑤第七班(十七)1齣、金曜日①第二班(十二)③第五班(十八)④第六班(十九)3齣の合計9齣、9班に週1齣ずつの授業であった。金曜日⑤は第一学年の全ての班が「作文」の授業で6人の教官で分担しているが、赤堀氏は第一班と第二班を1つの教室(二十四)で見ている。
 陸軍中央幼年学校は現在防衛省のある東京都新宿区市谷本村町、当時の東京市牛込区市谷本村町にあって、後年赤堀氏が住んだ市谷加賀町二丁目の南に隣接し、当時の住所である市谷田町からも遠くない。
 赤堀氏は私立言語取調所が帝国大学文科大学に寄附されてから、その雇員、助手、講師となっていたが、明治33年(1900)7月の年度末でその10年近い帝大での研究職を打ち切られてしまったようだ。『国語学書目解題』の「緒言」は明治33年9月10日付、満34歳の誕生日に書かれている。或いは、この帝大から退く条件として陸軍中央幼年学校附の陸軍教授の口が宛がわれたのかも知れない。それから同時期に、早稲田大学東洋大学など幾つかの学校で講師職を務めている。これらの先後関係等詳細はまだ解明途上である。ただ陸軍教授職が長続きしなかったことは佐藤氏の指摘する通りである。
・『〈明 治/卅九年〉任免』巻之二十五九月二
 「四十二」条め「陸軍教授赤堀又次郎休職ノ件」、白黒画像なので色が違うところは読まずに置く。明治39年(1906)9月18日付で、内閣書記官の印と、内閣総理大臣・内閣書記官長の花押に次いで、墨書で、

陸軍大臣禀議陸軍教授赤堀又次郎文官/分限令ニ依リ休職ノ件
     指 令 按
陸軍教授赤堀又次郎文官分限令第十一條/第一項第四號ニ依リ休職ノ件認可ス

とあり、これに続いて「陸 軍」用箋が綴じてある*2

   陸軍中央幼年學校附
       陸軍教授赤堀又次郎
右ハ當今教育學事上幼年學校教授/ニ不適任ト認メ候條文官分限令第/十一條第一項第四號ニ依リ休職命/セラレ度及禀議物也
  明治卅九年九月十七日
      陸軍大臣寺内正毅[印]


 内閣總理大臣侯爵西園寺公望殿


「文官分限令」は明治32年(1899)3月27日に勅令第六十二號として公布されている。「官報」第四千七百十八號(明治三十二年三月二十八日・印刷局)に拠れば、第十一條は、

第十一條 官吏左ノ各號ノ一ニ該當スルトキハ休職ヲ命スルコトヲ得
 一 懲戒令ノ規定ニ依リ懲戒委員會ノ審査ニ付セラレタルトキ
 二 刑事事件ニ關シ告訴若ハ告發セラレタルトキ
 三 官制又ハ定員ノ改正ニ因リ過員ヲ生シタルトキ
 四 官廳事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ
 前項休職ノ期間ハ第一號及第二號ノ場合ニ在テハ其ノ事件ノ懲戒委員會又/ ハ裁判所ニ繫屬中トシ第三號及第四號ノ場合ニ在テハ滿三年トス

とある。但し明治36年(1903)11月4日の勅令第百五十六號にて「滿三年」が「高等官ニ付テハ滿二年、判任官ニ付テハ滿一年」に改正されている。陸軍教授であれば高等官(奏任官)だから、赤堀氏は「第十三條 第十一條ニ依り休職ヲ命セラレタル者ニハ其ノ休職中俸給ノ三分/ ノ一ヲ給ス」により明治41年(1908)9月まで俸給の 1/3 を支給されていたことになるだろう。(以下続稿)

*1:国立国会図書館蔵本「七」は活字に重ねて書込む。

*2:仮に「物」と読んで置いた字は自信がない。猶考ふべし。