瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(06)

 今日は市谷加賀町二丁目、そして早稲田南町への転居について筆を及ぼすつもりであったが、もう少々それ以前の学歴・職歴・住所に関する資料を漁って置きたい。
・『東京帝国大学一覧』
 「大学一覧」は大学の年間予定、沿革、法令、規程、在職の教員と在学生、学位授与者などを纏めたもの。
・『東京帝國大學一覽〈自明治三十一年/至明治三十二年〉明治三十一年十二月 十 日印刷・明治三十一年十二月廿八日發行・定價金四十五錢・東京帝國大學・五百六十六頁)
 百九十三~二百二十七頁「◯第十四章 文科大學」百九十三頁2行め~百九十七頁3行め「第一 職員〈同職中ノ氏名ハ/就職ノ順ニ揭ク〉」、まづ「學長」1名、次いで「教授及教師」15名、「助教授」4名、そして百九十五頁4行め~百九十六頁9行め「講師」14人、「授業囑託」1名、そして一旦仕切って「史料編纂委員」3名、最後に名誉教師としてチェムバレーンの名がある。赤堀氏の名は「講師」の最後、百九十六頁9行めに「國文學」が「文學士 赤堀又次郞 三 重」と見える。「就職」の順とすると明治31年からであろうか。なお直前に見える2人、7行め「宗教學」の「文學士 姉崎正治 京 都」と8行め「認識論」の「文學士 松本文三郞 石 川」であるが、姉崎正治(1873.7.25~1949.7.23)は後に東京帝国大学名誉教授、松本文三郎(1869.五~1944.12.18)は京都帝国大学名誉教授と栄達を極めている。
・『東京帝國大學一覽〈自明治三十二年/至明治三十三年〉明治三十二年十二月 一 日印刷・明治三十二年十二月十一日發行・定價金五十錢・東京帝國大學・五百九十二頁)
 百九十一~二百二十七頁「◯第十二章 文科大學」百九十一頁2行め~百九十五頁7行め「第一 職員〈同職中ノ氏名ハ/就職ノ順ニ揭ク〉」
、まづ「學長」1名、次いで「教授及教師」14名、「助教授」5名、そして百九十三頁4行め~百九十四頁11行め「講師」19名、「史料編纂委員」4名、最後にチェムバレーン。赤堀氏の名は百九十四頁2行め、松本氏がいなくなって姉崎氏の次、10人めに「國語學」の担当として見える。「文學士」の肩書はなく「赤堀又次郞 三 重」とのみ。確かに「犬山壮年會雜誌」第壹號には「帝國大學古典講修科ヲ卒業ス」とあるのだが、『東京帝國大學一覽』前年度(第二十一章)及びこの年度(第十九章)の「學士及卒業生姓名」の章に列挙された中に、赤堀氏の名は見当たらないのである。
 もう一つ疑問があるのは犬山壮年會の会員であったことから察せられるように、尾張国丹羽郡犬山(現愛知県犬山市)の出身であったと思われるのに、本籍地が「三重」となっていることである。同姓同名の別人がいたとも思えない。
・大塚眞彦(新三)橋本信行(省吾)編輯『〈明 治/十七年〉御會始歌集』櫻陰書屋(橋本省吾)
 上卷(前付+七十九丁)中卷(六十九丁)下巻(明治十七年七月三十日御屆・同   年 月  日出版・定價金壹圓貳拾錢・五十丁+正誤1丁+橘道守氏藏板書目1丁)の3冊から成る活版和装本。「御会始」は今の歌会始で、上卷前付に木版の「御製」を載せる。上卷卅九丁表12行めに、

青雲のたな引極みきこゆらん御空にたかき田鶴の諸こゑ 久居   赤堀又次郎

とある。久居は三重県一志郡、2006年1月1日に津市に併合されるまで久居市であった。『東京帝国大学一覧』に「三重」を本籍とする赤堀又次郎と同一人物だろうと思われるのだが、文科大学の講師として国文学と国語学を講じている赤堀又次郎は、やはり後年の著述家の赤堀又次郎で、そうすると犬山壮年会会員の赤堀又次郎としか思われないのだが、どのような縁で三重県(久居)を本籍としていたのだろうか。とにかく全て同一人物だとするとこの『御会始歌集』の和歌は明治17年(1884)の御会始のために明治16年(1883)末に作ったのだとして十八歳、満17歳のときの作である。
 当時、赤堀氏が何処で勉学に励んでいたのか、そう云った辺りのことも分からない。東京帝国大学の講師も2年間だけであったようで、前後の『東京帝国大学一覧』には赤堀氏の名は見当たらない。
・『東洋大学一覧』
 大正7年(1918)から昭和12年(1937)まで13種が現存している*1らしい。国立国会図書館には①大正7年度②大正13年度③大正14年度④昭和2年度⑪昭和9年度⑬昭和12年度の6冊が所蔵されており、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る。CiNii に拠れば、大学図書館に②大正13年度③大正14年度④昭和2年度⑤昭和3年度⑥昭和4年度⑦昭和5年度⑧昭和6年度⑨昭和7年度⑩昭和8年度⑪昭和9年度⑫昭和10年度⑬昭和12年度の12種が所蔵されている。しかし東洋大学附属図書館には所蔵がないようだ。
①『東洋大學一覽』(大正七年十二月十八日發行・東洋大學同窓會・三八二頁)
 三六頁7行め~四六頁1行め「五、前 講 師 (イロハ順/×は死亡)」の四三頁7行めに「赤 堀 又 次 郎」の名が見え、住所は「牛込區市ヶ谷田町二ノ一」である。氏名の上に「×」のある人物には住所の記載がない。
②『東洋大學一覽(大正十三年度)(大正十三年十一月三十日印刷・大正十三年十二月 一 日發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・二七六頁)
 二三頁下段13行め~二八頁「前 職 員 (イロハ順/×は死亡)」の二七頁上段11行め、

牛込區市ヶ谷田町二ノ一      赤 堀 又 次 郎

とある。
③『東洋大學一覽(大正十四年度)(大正十四年十二月十五日印刷・大正十四年十二月二十日發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・二七九頁)
 二四頁下段2行め~二七頁上段5行め「前 職 員(イロハ順/×は死亡)」では住所を入れるのを止めてそれぞれの段を更に上下に割って、二六頁上段13行め下に「赤 堀 又 次 郎」の名が見える。死亡者に住所を記載しないのであればいづれ空欄だらけになってしまうし、余り役に立つ情報でもないので氏名だけにしたのであろう。
④『東洋大學一覽(昭和二年度)(昭和二年十二月一日印刷・昭和二年十二月五發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・三三八頁)
 二七頁下段14行め~三〇頁下段9行め「前 職 員(イロハ順/×は死亡)」二九頁下段14行め下に「赤 堀 又 次 郎」。
 ⑪昭和九年と⑬昭和十二年には「前職員」項がない。
 3月24日付(03)に見た「愛親会会報」の明治44年(1911)2月、明治45年(1912)2月時点の名簿では、赤堀氏の住所は牛込区市谷田町二丁目三十三番地となっていたが、『東洋大学一覧』の①大正7年(1918)と②大正13年(1924)には100mほど南の市谷田町二丁目一番地とある。現在の新宿区市谷加賀町2丁目1番地、浄瑠璃坂の仇討で知られる浄瑠璃坂の下で、市谷田町は住居表示が実施されていないので当時のままである。――これを信じれば、大正初年に市谷加賀町二丁目十四番地に転居して、また市谷田町二丁目に戻ったことになるが、既に見たように「図書館雑誌」第三十号に大正6年(1917)3月時点の名簿には市谷加賀町二丁目十五番地、「図書館雑誌」第四十七号の大正10年(1921)10月末時点の名簿でも市谷加賀町二丁目十三番地とあるから『東洋大学一覧』は恐らく明治30年代から43年以前、時期の特定は出来ていないが赤堀氏が東洋大学の講師を勤めていた時期の住所をそのまま記載しているのではないかと思われる。(以下続稿)

*1:5月21日追記】誤脱があるらしく繋がりが妙である。よって「らしい。」を補う。