瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(50)

・鹿島家との関係(1)
 川瀬一馬の云うように「赤堀氏は鹿島則文の女婿」であった。
 私はこのことを知ったとき、鹿島則文伊勢神宮宮司で創設期の神宮皇学館の拡張に努めた人物であったことから、神宮皇学館の前身である神宮教院本教館に学んでいたらしい赤堀氏とは、その辺りで縁が生じたのかと思ったのである。しかし、鹿島則文が一家を挙げて伊勢に赴任したのが明治17年(1884)5月、その年に赤堀氏は東京大学文学部附属古典講習科に入学している。そうすると重ならなくもないがかなり無理のある筋の引き方になる。
 ところがその後、資料漁りを続けるうちに、そんな無理な筋を引く必要がないことが分かった。
・「官報」第千五百拾號(明治二十一年七月十二日・内閣官報局・一二頁)
 三頁上段3行め~八頁「○ 彙 報」三頁下段11行め~六頁下段36行め「○ 教 育」三頁下段12行め~五頁下段15行め「○帝國大學分科大學卒業證書授與式(昨十一日ノ續)」これは「官報」第千五百九號(明治二十一年七月十一日・内閣官報局・一二頁)の続きと云うことである。三頁下段13行め~五頁上段27行め「渡邊帝國大學總長ノ演說」から文科大学に関して述べた箇所を抜いて置こう。四頁下段1~8行め、

文科大學ニ於テハ前學年卒業證書授與式ノ際陳述セシ如ク本學年ヨリ史學英文學獨逸文學ノ三科ヲ新/設シ其他學科課程ヲ修正シタル者アリ來學年ニ於テハ學科課程ノ修正ヲ要スルノ豫圖ナク唯史學科中/ニ日本歴史ノ一科ヲ加ヘントス教員進退ハ本學年ニ於テ内閣修史局編修長重野安繹ニ日本歴史ノ講義/ヲ囑托シ講師文學士日高眞實ハ教育學專修ノタメ獨逸國留學ヲ命セラレ其他一二講師ノ更迭スルモノ/アリシノミ本學年卒業ノ學生ハ哲學ニ一名和文學ニ一名通計二名ナリ該大學ハ萬般ノ學理ヲ統一スル/重要ノ學術ヲ教授スルニモ拘ハラス連年此ノ如ク卒業生ノ少キハ實ニ浩歎ニ堪ヘサル所ナリ古典講習/科ハ國書課ニ十七名漢書課ニ十六名ノ卒業生ヲ出タセリ該科ハ更ニ生徒ヲ募集セス本學年ヲ限リ之ヲ/廢止ス前學年卒業學生ノ内二名ハ大學院ニ入リ一名ハ尋常中學校長ニ任セラレタリ


 そしてこれに続く五頁下段16~28行め、2項めが、

○古典講習科卒業 帝國大學ニ於テ一昨十日卒業證書ヲ授與セシ文科大學古/典講習科生徒ハ左ノ如シ(文部省)
  圖書課
 長野縣士族  岩本  正方|福岡縣士族  西田  敬止|東京府士族  平岡  好文
 三重縣士族  赤堀 又次郞|群馬縣平民  黑川  福藏|三重縣士族  鹿島  則泰
 福井縣士族  宮島  善文|廣島縣平民  和田  英松|佐賀縣士族  星野  忠直
 東京府平民  井上甲子次郞|千葉縣士族  大久保 初男|茨城縣平民  生田目 經德
 埼玉縣士族  須永   球|東京府平民  佐々木 信綱|東京府士族  大澤 小源太

  漢書
 長崎縣平民  竹添 治三郞|長崎縣士族  菅沼  眞風|東京府士族  櫻井 恒太郞
 新潟縣士族  島田  鈞一|岡山縣士族  山田   準|東京府士族  竹中  信以
 愛媛縣士族  黑木  安雄|埼玉縣平民  關  藤十郞|長野縣士族  北原  文治
 愛媛縣士族  長尾 槇太郞|東京府士族  藤澤 碩一郞|東京府士族  齋藤  坦藏

である。ちなみに文科大学の卒業生2名は、第千五百九號を見るに四頁下段に「文科大學/哲學科/長野縣士族  澤柳 政太郞/和文學科/愛知縣士族  上田  萬年」とある。
 総長は「国書課」17名「漢書課」16名と云っていたがここには「図書課」と誤植して15名、そして「漢書課」には12名しか出ていない。年齢順・いろは順・五十音順ではないから席次だろう。赤堀氏は2人め、そして鹿島則文の長男鹿島則泰が12人めに出ている。
 そうすると赤堀氏は、学友の妹と結婚した、と云うことになる訳である。(以下続稿)