瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(34)

 昨日の続き。
・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(5)
 佐藤哲彦「解題」の「赤堀又次郎について」は、続いてⅱ頁5~15行め、古典講習科について説明する。これは石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)の「赤堀又次郎」項に拠って知った訳である。その辺りは当ブログでは繰り返しになるから、ここでは佐藤氏が追加した後半(9~15行め)を抜いて置こう。

‥‥。赤堀と同期の和田英松は、雑誌『国語と国文学』の第十一巻第八号(昭和九年)の「古典講習科時代」/のなかで、赤堀のことを成績優秀者として挙げ、「赤堀君は、たしか、神宮教院でしたか、伊勢の方の学校で、修学し/て来た人ですから、もう入学した時から相当国学に通じてゐたやうです。」と回想している。
 また、佐佐木信綱も同じ号「古典科時代のおもひで」で、明治十七年の第二期生として入学した古典講習科の国書/課の学生十五名として、自分とともに和田や赤堀も挙げている。ただ、佐佐木は一期生が関係ポストを占めてしまっ/たと述べており、実際、佐佐木も和田も長く嘱託を勤める他なかった。この点で赤堀も安定した研究職に長く就いて/いたようには見えない。‥‥


 この佐藤氏の調査を元に、3月28日付(07)に見た村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」は原典に当たり直して和田氏の談話の方を抜いているが「神宮教院」を「神官教院」と誤っていた。なお村嶋氏は「成績優秀であった赤堀は,卒業後直ちに,文科大学雇として採用されたようで,『国語学書目解題』の編纂に従事した。」と、前回参照した「東京大学文書館デジタル・アーカイブ」を見たのであろう、佐藤氏の言及しない古典講習科卒業後の身分について述べているが、『国語学書目解題』の「緒言」等にあったように、当初(明治22年1月)は私立言語取調所に入ったので、言語取調所がその蔵書や事業(『国語学書目解題』編纂等)ともども、明治23年(1890)10月に帝国大学に寄附されたために赤堀氏の立場も「文科大学雇」になったはずで、少々誤っている。
 ところで昨日、赤堀氏が保科氏とともに明治30年(1897)9月に帝国大学文科大学国語研究室の助手となった、とされているにことについて、以前から「文科大学雇」すなわち雇員であった赤堀氏が、教室制の導入によってこのとき新設された「国語研究室」の「助手」に改めて任命されたと云うことで、7月に文科大学を卒業したばかりの「新卒採用」保科氏とはかなり立場が異なるだろう、と述べた。
 しかしこれは、大筋では合っていると思うのだけれども、正しい説明ではなかった。まぁ泥縄式でやっているものだから仕方がない。
・『文部省職員録』
 もちろん全てが泥縄式と云うのではなく、以前から大まかな筋は決めて書いていて、本を借りたり返却に際して入力したり複写を取ったり、そこそこ準備はしているのである。しかし見付けて置いた資料について実際に書いて見ると、やはりどうしても、途中で脇道に逸れるようだけれども、更に詰めて置きたいところが出て来る。この『文部省職員録』も今更ながら気が付いた。――全てが分かっていて書いている訳でもないし、論文として結論だけ書くようなやり方は今の私には出来ない。いや、論文として書かせてくれるところがあれば書こうと云う気持ちはないではない。向こう1年間くらい資料漁りをして犬山城白帝文庫歴史文化館や群馬県立文書館などの調査を済ませてからと云うことになるけれども。しかし今は何処にも出掛けずに、国立国会図書館デジタルコレクションで済ませられるところを只管詰めて行くばかりである。
・『文部省職員録〈明 治 二 十 三 年/十二月廿三日調〉目録+百三十二頁
 これが言語取調所が帝国大学に寄附されて後に初めて刊行された『文部省職員録』だけれども、赤堀氏の名前は見当たらない(ようだ)。なお奥付を欠いていて印刷発行日が分からない。
・『文部省職員録〈明治二十五年/七 月 一 日 調〉明治二十五年七月七日印刷・明治二十五年七月八日出版・不發賣・文部大臣官房・三+二百三十三頁
 八十四~八十九頁「◯文科大学」に、まづ外山正一が「長/教頭心得/教授(勅任)」の3度続けて続いて続いて「教授(奏任)」10名「助教授」1名「舍監心得」1名「書記」1名に続いて、

雇(教務)
      無給
       赤堀又次郎 〈三 重 縣/士  族〉

とある。次に「雇(事務)」1名、残りは「●史誌編纂掛」である。ところが次の年からしばらく載っていない。
・『文部省職員録〈明治二十六年/十二月一日調〉明治二十六年十二月 九 日印刷・明治二十六年十二月十一日發行・不發賣・文部大臣官房秘書課・三+百八十一頁
・『文部省職員録〈明治二十七年/十二月十二日調〉明治二十七年十二月二十二日印刷・明治二十六年十二月二十四日發行・不發賣・文部大臣官房秘書課・三+百六十八頁
・『文部省職員録〈明治二十八年/十二月七日調〉明治二十八年十二月十四日印刷・明治二十六年十二月十八日發行・不發賣・文部大臣官房秘書課・四+百八十二頁
・『文部省職員録〈明治三十年/五月一日調〉明治三十年五月廿四日印刷・明治三十年五月廿七日發行・不發賣・文部大臣官房秘書課・三+百九十一頁
 五十七頁16行め~六十五頁6行め「◯文科大学」に「長」1名「教授」12名「助教授」5名に続いて、

助手
     七級俸
     赤堀又次郎 〈三 重 縣/士  族〉
        牛込區天神町五三

とある。次に「書記」2名、残りは「●史料編纂掛」である。牛込区神町53番地は現在の新宿区天神町64番地2号、グランドメゾン神楽坂のある辺りである。
 そうすると、赤堀氏は「国語研究室」が新設される以前、保科氏が明治30年7月に文科大学を卒業する前から既に文科大学の助手だったのである。そして9月に国語研究室の設置に伴ってその所属になって、新卒採用の保科氏と同じく初代の、新設の国語研究室の助手と云うことになったのである。しかし、いつから、どういう経緯で赤堀氏は「雇」から「助手」になったのだろう。そして『文部省職員録』に記載のない期間は帝国大学から離れていたのか、それとも単に雇員を載せなかっただけなのか、――まぁ分からぬことだらけではある。(以下続稿)