陸軍教授の肩書の赤堀氏の著述も幾つかあるが、著述については追って纏めて取り扱うこととしよう。
さて、昨日、赤堀氏が陸軍中央幼年学校の教官になったのがいつなのか、憶測を述べたのであるが、国立公文書館デジタルアーカイブで任免裁可書を遡っていくと、いつ任官されたのかも一応は分かったのである。
・『〈明治/卅七年〉任免』巻一
「一」件め「従六位秋山雅之助以下二名陸軍省参事官及陸軍教授ニ被任ノ件」がそれである。国立国会図書館デジタルコレクションのように全文検索出来ないので、昨日見た「陸軍教授赤堀又次郎休職ノ件」のように件名に名前がないと引っ掛かって来ない。そこで「陸軍教授」で検索してヒットしたものを遡りつつ閲覧して行ったのである。
「内閣」用箋で1丁表「從六位勲四等秋山雅之介以下二名任/官ノ件」とあり裏には、
右謹テ奏ス
明治三十七年一月四日
内閣總理大臣伯爵桂太郎(花押)
とある。2丁めは裏面白紙の「陸軍省」用箋で「明治卅六年十二月卅一日」付で、「任陸軍省參事官」の秋山雅之介に続いて、
赤 堀 又 次 郎
任陸軍教授
敘高等官七等
とある。3丁めの秋山雅之介と同じ「陸軍省」用箋に同じ形式で4丁表、
とあり裏は記載なし。5丁めも裏面白紙の「陸軍省」用箋(13行罫紙)で、
銓第五百三十八号
國語漢文ニ関スル陸軍教授 赤 堀 又 次 郎
右本人ノ履歴書ニ依リ銓衡候處頭書相當ノ資格/アル者ト認ム
明治三十六年十二月二十日
文官髙等試驗委員
とある。冒頭薄い字は朱書であろう。そして6丁め秋山雅之介と同じ裏面白紙の「陸軍省」用箋(10行罫紙)に同じ形式で7丁め、
明治36年(1903)12月から明治37年(1904)1月に掛けて手続きが進んで陸軍教授に任官されたことは分かるのだが、そうするとしかし、前回見た明治35年(1902)12月発行の第八版『日本紳士録』には既に「中央幼年學校教授、東京帝國大學文科大學講師」と見えていたのはどういうことなのか、と云うことになる。しかしながら、しばらく遡った限りではこの齟齬を解決するような資料は得られなかった。「陸軍助教」が「陸軍教授」に「昇任」している事例は幾つか目に入ったが、赤堀氏の場合「陸軍助教」から昇任したことにはなっていない。色々すっきりしないが今は右資料の発見を報告するに止める他はない。(以下続稿)