瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(18)

・赤堀象万侶③武儀郡諸社の神官
・倉知土地改良編集委員会 編『山野豊倉知の土地改良史と倉知の歴史昭和六一年三月二〇日 印刷・昭和六一年四月 一 日 発行・倉知土地改良区・口絵+八八一頁
 八八一頁に顔写真付で〈監修者紹介〉として吉岡勲(1914.3.23~1993.5.4)、〈執筆者紹介〉として五十川才吉(1922~2004)が紹介されている。
 五四三~七四九頁「第五章 倉  知  祭」五七九~六五六頁「第五節 祭 の 沿 革」六三一頁5行め~六三九頁2行め「四、明治、大正の倉知祭」の項、六三三頁10~12行めに、

 明治七年には、現神職が辞職し、関村元南輿院主豊鋭が就任した。
 明治八年には、現神職辞職し、旧犬山の神職赤堀象万侶が就任した。
 従来の御幣綿裁断を左図のように改める。

と、就任のことが見える。以降しばらく赤堀象万侶が神職だった時期の沿革と云うことになるが、その1条めの12行め「左図」が早速見当たらない。
 それはともかく、江戸時代まで「上組 白山大権現」と下組「鞍智大明神」もしくは「松江大明神」と称されていた神社が、明治7年(1874)に村社 白山神社と鞍知神社に改称され、江戸時代にはそれぞれ別の修験者が神事を務めていたのを、明治以降上下両社の神職を一人の人物が兼職することになっていた。その3人めが赤堀象万侶である。六三三頁15行め「 明治一二年四月一五日郡長の内問に応じて、左の書面を提出した。」として16行めから六三五頁14行めまで、明治12年(1879)4月15日に武儀郡倉知村 戸長 山田與市が武儀郡長 阿部直輔に提出した書面の訳を載せ、15行めに下寄せで(資料37意訳)とする。その文中、六三五頁8行めに「‥‥。ですから別に赤堀象万侶(神主)「のりと」(資料38)を附して、‥‥」とあるが、この資料37の原文は六八三~七四九頁「第九節 祭礼に関する資料(古文書)」七四七~七四九頁2行め「白山鞍知神社祭典之次第御内問ニツキ/旧例ノ如ク存センコトヲ請求スル書*1」との題で掲載されているが、題の上にやや小さく「資料No. 37」とある。続いて掲載されている七四九頁3~12行め「倉知村村社祭祝詞」は題の上にあるべき「資料No.38」を欠いている。先に引いた五十川氏の訳に対応する原文は七四八頁14~15行め「‥‥因テ別ニ司官赤堀象万侶所記ノ一章ヲ附/シ‥‥」で、祝詞は送仮名が万葉仮名になっているが七四九頁5行めに「仕官赤堀象万侶」の名が見える。
 六三六頁11~12行め

 明治 二九年 神職赤堀象万侶に異常があり、大矢田神社社掌真清国次が代わって例祭を行う。
 明治三〇年四月 神職赤堀象万侶辞任して真清国次兼務となる。


 そうすると赤堀象万侶は明治8年(1875)から明治30年(1897)4月まで20年以上武儀郡倉知村の村社白山神社・鞍知神社の神職を務めたことになる。
 但し倉知村に住んだ訳ではなく、武儀郡の中心地、関町に住んで周辺の複数の神社の神職を兼務していたらしい。
宮武外骨 編輯「骨董雑誌」第貳號(明治二十九年十二月十九日印刷・明治二十九年十二月廿四日發行・定價一部金十錢・骨董雜誌社・十九丁)
 橙色の前付2丁の見開きが上下2段の「骨董雜誌愛讀家 第一表」で、右頁上段2~3行め、

 茲に揭ぐるは本社へ直接前金(一ヶ年或は半ヶ年分)を/ 以て御申込相成たる諸君のみなり

とあって、右頁上段21人、下段25人、左頁は上下段各25人の合計96名の住所と氏名を列挙するが、左頁下段5行めに、

美濃國武儀郡關町          赤 堀 象 万 侶君

と見える。これは倉知村村社の神職を辞任する前年の明治29年(1896)、「異常」があって倉知祭の執行が出来なかった年の暮である。
・『〈岐阜縣/武儀郡富之保村誌』大正拾四年六月壹日印刷・大正拾四年六月五日發行*2・非賣品・岐阜縣武儀郡富之保村役塲・口絵+二〇七頁
一四七~頁「第九章 社寺」一四七頁2行め~一六一頁12行め「第一節 神社」一四七頁6行め~一五六頁6行め「一、水無神社、岩山崎區内臼洞鎭座」に、一五五頁4~行め、

奉遷年代 古蹟名勝誌は記して慶長五年四月とせり本村保存の古文書中該記事は全然なし按ずるに明治/十一二年頃中之保村若栗神社神官赤塚象麻呂氏の調査に慶長五年貞亨二年云々の記事あり恐らくはこれ/に依りたるものならん
赤塚氏は何によりて調査したるか頗る疑問とする處なり中之保村より奉遷したるは岩山崎區内現今古宮/と稱する点にして‥‥


 以下反論が述べてあるが割愛する。若栗神社は武儀郡富之保村から津保川を下った武儀郡中之保村若栗にあって、富之保村と中之保村は更に下流の下之保村と昭和30年(1955)4月1日に合併して武儀郡武儀村、昭和46年(1971)4月1日に町制施行して武儀町、そして2005年2月7日に関市に編入されている。
 この「赤塚象麻呂」だが、明治前期の武儀郡神職で「象麻呂」などと云う人が他にあったとも思えないので「赤堀象万侶」の「堀」を「塚」と誤読したのであろう。とにかく関を拠点として、武儀郡内の複数の神社の神職を兼務していたらしいのである。(以下続稿)

*1:助詞「ニ」は小さく右に寄せる。

*2:国立国会図書館蔵本は印刷日の上から明朝体の印で「八月拾日」と捺し、発行日の左傍に同じく「八月拾五日」と捺す。