瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(20)

 私は何も大和田刑場の存在自体を否定しようとしている訳ではない。差当り「三大刑場」云々と喧伝するのを控えてもらいたいと思っているだけである。
 幕末に大和田刑場が処刑場であったことを窺わせるものとして、次の本の記述を抜いて置こう。
長谷川伸『相樂總三とその同志』昭和十八年五月十日印刷・昭和十八年五月十日發行・定價金參圓六拾錢・新小説社・664頁
 187~223頁「八王子荻の山中の變」の章、212頁8行め~223頁「甲州組相州組」の節に、慶応三年(1867)十二月十五日の相州荻野山中陣屋焼討について述べ、219頁6~14行め、そのうち、

‥‥。死者/はただ一人、上州錦織郡綿打村の鄕士長山眞一郞、二十七歲で、何かで一行に遲れ、獨り布田*1/驛(現、調布町のうち)を江戶に向かつて步いてゐると、八王子千人同心の和田光之丞が數人/でやつて來て、呼びとめ、忽ち斬合ひとなつた。衆寡敵せず、負傷して生捕られた。長山が生/捕られた場所に異說があり、布田ではない下高井戶だといふ。下高井戶は甲州街道の間の宿、/布田も甲州街道の間の宿で、下高井戶布田間は二里一丁ある。長山は故鄕に老母と妹とだけし/か居ないといふのを知つてゐる同志が、大いに哀み憫んだ。
 長山眞一郞は八王子へ護送され、賊名を着せられ、大和田河原で斬られた。十二月二十日の/ことだ。【219】

とある。多摩郡一帯の治安維持に当っていた八王子千人同心は、罪人を八王子の大和田河原に護送して処刑していたことになる。
 同じ十二月十五日に薩摩藩邸を出発した「甲府乗取り組」については、その前に記述されているが、この組は八王子で壊滅している。うち2名が大和田河原で斬られている。214頁10行め~215頁7行め、

 八王子の妓樓千代住・壺伊勢に泊つた上田修理の一行は、隊士の原宗四郞が(惣十郞と記し/たものもある)、間諜だと知らなかつた。原宗四郎は八王子千人町に在住の千人頭、俗に八王子/の千人同心といふ、その隊長と聯絡をとり、千人同心は關所のある駒木野(落合源一郞の出身/地)附近の農兵隊の首領である鈴木金平に援助を命じた。さうと心付かず、女を擁して甘い夢/にはひつてゐた上田修理一行は、夜九ツ半(午前一時)、不意に强襲されて、千代住の階上と階/【214】下が先づ、瞬くうちに乱闘場となり、家の中の半分がこはれた。
 間諜の原宗四郎は短銃をもつてゐた。一行のうち美濃加納の河田新助といふものの弟で富田/彌十郞が、武藝に長じてゐて、手痛く千人同志等と鬪つてゐる、その脇から、不意に二發あび/せかけ射殺した。植村平六郞は圍みを衝いて一度はのがれたが千人同心等に追跡され、大和田/河原で斬死を遂げた。堀秀太郞(俊德)は、これ又、千代住を脫出し、十五宿のうちの本鄕と/いふにある善能寺へ飛びこんだ、そこも探索がきびしいので出て、大和田河原まで落のびた/が、包圍に陷り慘殺された。僕の重吉は二階から火鉢を投げつけてゐたが討たれた。


 しかしこれは刑場の大和田河原で処刑された訳ではない。(以下続稿)
追記】『相楽総三とその同志』は浪人生時代に入り浸っていた渋谷区立中央図書館で手にした書評集に褒めてあったので読みたいとは思っていたのだが、どうも私は幕末維新が好きになれないので、以来30年以上手にすることもなく来ていた。
 今回、次の文庫本を借りて来て、ざっと目を通して見た。
・中公文庫『相楽総三とその同志(上)一九八一年二月一〇日初版・一九九五年八月三〇日3版・定価583円・中央公論社・290頁

・中公文庫『相楽総三とその同志(下)一九八一年三月一〇日初版・一九九五年八月三〇日3版・定価583円・中央公論社・263頁講談社学術文庫2280『相楽総三とその同志』2015年2月10日 第1刷発行・定価1580円・591頁 私にはどうも、勤皇が正義と云う前提がまづ受け容れられない。天皇のために尽くしたからテロリストでも顕彰するべきだ、とは、とてもでないが思えない。むしろこれまで持ち上げられ過ぎて来た分を差引いて考えるべきであろう。目的に純粋であることは美しいかも知らんが思考停止の気味を覚えてしまう。私は靖国神社にも明治神宮にも参拝したことがない。神社本庁のことを知るにつけ神社全般に参ろうと云う気がしなくなっている。だからここに書かれている経緯や個々の人物の経歴などはそれなりに興味深いが、尊皇攘夷を奉ずれば何をしても許されると云うような横暴が感じられて、その Machiavellism にはどうしても好意を持つことが出来ない。

*1:ルビ「ふ た 」とあるが正しくは「ふだ」。