瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(21)

 前回確認した長谷川伸『相樂總三とその同志』だが、出来れば依拠した資料に遡って、その原文を引用したいところである。但し原資料を探り当てるのは別に幕末にも相楽総三とその同志たちにも大して興味がある訳でもない私には甚だ面倒である。漸く国立国会図書館デジタルコレクションで次の資料に逢着した。
信濃教育會諏訪部會 編輯『相樂總三關係史料集』昭和十四年十一月二十日 印刷・昭和十四年十一月廿五日 發行・非賣品・信濃教育會諏訪部會・一二+一三二頁
 標題は題簽には「相樂總三關係史料集」とあるが扉には「相樂總三關係文書集」とある。
 一二頁ある前付にも一頁1行め「相樂總三關係史料集」と題している。続いて「例言」として四項、うち3~5行め「一、本書は昭和五年八月二十日諏訪史料叢書第十三卷として刊行せしものを、今回多數の希望者ありたる故從前のものに/  木村家所藏文書一通、三村文庫所藏の「相樂總三より引揚之物品取調帳」及外四通を增補し、尙終りに昭和五年魁塚/  に建てられたる國府種德氏譔の碑文を錄したり。」とある。
 四一~四六頁「薩邸事件略記」は、二~八頁5行め[書 目 解 題]に拠ると、二頁8行め「二、薩 邸 事 件 畧 記」は9行め「これは落合直亮*1が後年手記して家に殘し置きたるもの‥‥」だが、落合家の原本は所在不明となっていたため、相楽総三の孫で『相樂總三とその同志』の巻頭「木村龜太郎泣血記」の章に、その生涯を祖父の名誉回復に尽力した様が活写されている、木村亀太郎による転写本を使用している。その四二頁下段4~15行めに、

‥‥。甲州行上田修理ヲ以テ隊長トシ/テ數人出發ス八王子驛ニ於テ幕府ノ間牒、原惣十郞(會藩/ナリシト云)駒野木驛ノ農兵頭鈴木金平等ノ爲メニ富田彌/十郞、山田謙助等妓樓千代住ニ謀殺セラル、上田新七郞、/加藤隼人等遁レ歸ル(此一行ハ甲州黑駒村神主武藤々太ノ/誘引ニヨリシナリ)。相州行坂田三四郞ヲ隊長トシ結城四/郎、岩谷鬼三郞等數人之レニ從フ十二月十六日大久保佐渡/守ノ山中陣營ヲ攻擊シ强藥軍資ヲ奪掠ス、此夜下平井村久/保田惣右エ門ニ泊ス、歸途八王子ヲ經テ布田驛ニ至リ長山/眞一郞一步後レタリ八王子千人隊和田光之亟ノ爲ニ追捕セ/ラル(後大和田河原ニ刎首セラル)。十七日浪士全隊內藤新/宿ニ泊シ拂曉薩邸ニ入ル。

と、昨日引用した『相樂總三とその同志』とほぼ重なる記述があるが、長谷川氏の方が詳しくなっている。そこは別の資料を参照したのであろうが、そうなると私の手に負えない。揃えていられない。
・諏訪史料叢書刊行會 編纂『諏訪史料叢書』第十三卷*2(昭和五年八月十五日 印刷納本・昭和五年八月二十日 發  行・非賣品・鮎澤商店印刷所/諏訪史料叢書刊行會)は脇題簽に「相樂總三關係史料」とある。『相樂總三關係史料集』は通しの頁付であったがこちらは「薩邸事件畧記」の扉(頁付なし)に次いで、この資料のみの頁付(一~六)がある。引用箇所は二頁下段7行め~三頁上段1行めである。
 なお『相樂總三關係史料集』の巻末、一〇一~一三二頁に増補された「相樂總三ゟ引揚之物品取調帳」は「慶應辰年/七月」の年記と「岩波甚兵衞/平原眞助」の名がある。その一一六頁下段16行め~一一七頁上段3行めに、

一短刀       一腰
 銘 〈濤江介正近/三郎 安貞〉 作 嘉永七年二月日
 丈ケ壹尺程 海老鞘卷頭合口鐺共黑塗角/【一一六】 目貫 金着セ梅鉢  柄鞘 割之朱塗  鎺 赤銅 / 下緒 黑
  袖驗前ニ同白神進與有之

と、酒井濤江介正近と三郎安貞の合作の短刀が録されていることも参考までに書き添えて置こう。――酒井正近は安政二年(1855)二月に武蔵太郎安貞と合作した大太刀を高尾山薬王院に奉献しているが、嘉永七年(1854)二月はその丁度一年前、当時安貞は「太郎」ではなく「三郎」と名乗っていたのか、それとも読み誤りか誤植か。(以下続稿)

*1:前回の引用中に見えた「落合源一郎」。

*2:内題に拠る。題簽には「卷十三」とあり。