瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(16)

 さて、前回引いた後藤安孝「武州下原刀の研究(十九)」にて、後藤氏は酒井正近の処刑を明治三年(1870)、場所を「竹ノ鼻処刑場(八王子市新町)」としていた。
 2022年11月7日付(01)に、東京都八王子市『ふるさと八王子』の「大和田河原の刑場」を取り上げた際に引用を割愛した箇所に、この竹ノ鼻について触れるところがあった。41頁上段2~3行め、

 この大和田河原刑場は一部が後に、新町の/竹の花公園内に移動したといわれている。

とあるのがそれで、竹の花公園は八王子市新町5にある。2022年11月1日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(1)」に示したようにこの公園は『ふるさと八王子』に「竹の花の一里塚」として取り上げられているが、公園内に刑場跡のあったことには触れていない。
 さて、大和田(河原)刑場については『新編武藏國風土記稿』卷之一百多摩郡卷之十二/由井領」に載る「上大和田村」と「下大和田村」ともに記述がない*1
 しかし竹ノ鼻には刑場であった旨の記述がある。『新編武藏國風土記稿』卷之一百一多摩郡卷之十三」は「柚木領/八王子横山十五宿瀧山」について纏めた巻であるが、「竹ノ鼻」は十五宿のうち「新町」の「小名」として説明されている。尤も現況や由来伝説、さらに編纂者の推測が述べてあるばかりで刑場については触れるところがない。少し読み進めて「新町」の最後「舊蹟」に「成敗場迹」があってその割註に「竹ノ鼻ノ森ト水田トノ間ニ纔ナル芝地アリ昔牢獄アリシ比コノ所ニテ刑罰行ハレシト云」とある。これだとかなり前に廃止されたように読める。
 この「牢獄」については、やはり十五宿の1つ「小門宿」の「舊蹟」に、「大久保石見守陣屋跡」とともに「獄屋跡」が挙がっている。その割註に、

下ニ出セシ大久保石見守カ陣屋跡ノ側ナリ元和四年ノ比ヨリ御代官十八人此地ニ住シテ關東ノ御仕置ヲ沙汰セシコロコヽヘ獄屋ヲオカレ罪人ヲ刑罰スルハ竹ノ鼻ニテ行ハレシト云ソノ除地八畝ノヨシ寛文ノ撿地帳ニノスノチコノ獄ヲ廢セラレシカ今ハ畑トナリヌ

とある。
 もし後藤氏が確かな資料によって記述しているとするなら、明治三年(1870)には、一旦廃止されていた竹ノ鼻にまた刑場が置かれていたことになる。しかし村下氏が大和田河原の刑場、村上氏が水無瀬河原と云っているところからすると、どうもそのまま信じて良いか躊躇せざるを得ない。
 それにしても資料が少ない。しかもその少ない資料の、同じ人物の処刑場所が食い違っている。もちろん原資料があれば良いのだが、村下氏と村上氏は年月日を欠いているところからして伝聞を書いているようである。しかし伝聞にしても村上氏は昭和10年代まで、明治3年(1870)とすれば70年ほど前の酒井正近の斬首を目撃したと語る古老がいたと伝えているのだから、その水無瀬河原という説も捨てがたいように思う。
 尤もそんな推測は、磯沼家文書の「始末などの文書」が見付かれば必要なくなるのだけれども。(以下続稿)

*1:この辺りも『新編武藏國風土記稿』に「刑罪場」として記載されている鈴ヶ森と小塚原に比して、大和田刑場の知名度を疑わせるに足る。