瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(14)

 前回見た「八王子大和田郵政宿舎」が建設される前にあった工場であるが、昭和15年(1940)6月設立の中野篩絹の工場である。
・帝國興信所 編輯『帝國會社銀行要録』第三十一版(昭和十八年十二月二 十 日印刷・昭和十八年十二月二十五日發行・賣價 金 參 拾 四 圓 也(但定價 金 參 拾 參 圓/ 行爲税相當額 金壹圓)・帝國興信所)東京都(三九八頁)の二五一頁6段め45行め~二五二頁1段め6行めに記載がある。但し後半、役員名等は割愛した。

 中 野 篩 絹 株式會社
    八王子市大和田三一〇
目的 篩絹及絹ステンシル製造/ 販賣
設立 昭和十五年六月 總株數/ 二萬株 株主總數九名 决算/ 期五月、十一月【二五一】


 中野篩絹株式会社は昭和40年(1965)に日本篩絹株式会社(日野市豊田)と合併して現在は株式会社NBCメッシュテック(日野市豊田)となっている。すなわち合併を機に日本篩絹に統合される形になって工場が閉鎖されたようだ。
 それはともかく、酒井正近の処刑場所については、村下要助『生きている八王子地方の歴史』は「大和田河原の刑場」とするのであるが、実は文献によりばらつきがある。
・東京都文化財調査報告書22 村上孝介『刀工下原鍛冶』昭和44年3月31日 印刷発行・東京都教育委員会・262頁
 257頁11行めに「66. 正近,正親」と題して、酒井正近について述べている。冒頭部、12~20行めを抜いて置こう。

 幕末の八王子鍛冶として名を出したのは正近である。しかしこれは下原鍛冶の1人ではなく,細川/正義の門人で,本国は奥州白河である。
 正近 武州八王子酒井善右衛門 本国奥州 細川正義門 嘉永
 正近 同二代目 江戸木挽町住 酒井並右衛門男 安政
 以上の通り「刀工総覧」に載っているが,この根拠となったものは,幕末の刀工森岡朝導著,安政/3年(1856)刊の「新刀銘集録」5冊本であるが,その武蔵国の項中「細川氏系図」に載っている細/川正義の門人の中に「正親 武州八王子住人 酒井浪江」と初代門人の3番目にあり,またその項の/最後に次の通り載せてある。正近と正親とは,ともに八王子の住で,浪江介と並衛介といったとい/う,余りにも似た所が多いのに注意を惹かれる。


 そして21行めは系図風に2行半取って、左の正近から右の正近まで線を引き、その線の上に「正義門人本国奥州白川後武州八王子在」下に「小挽村住人 酒井並衛介/文政」とあり右の「正近」の直前で、線の上に「子」と添え、名の右に「嘉永」と添える。
 22~28行め、

 この小挽村は小比企村の誤りであろう。「細川系図」にある正親と正近は同人ではなかろうかと思/って,細川文書などを見せて貰ったが,やはり別人であった。しかし実作として残されたものからす/ると,正近銘のものはあるが,正親銘のものはほとんど見ない。しかし「刀工総覧」にも「正親 武/蔵八王子住 細川正義門 安政頃」と明記してある。これも「新刀銘集録」からそのまま写したよう/な内容であるが,正親銘の実作は未見であり,押形もなく,登録刀もないので,この刀工に関しては/詳細不明であった。もし正近とは別人で,同時代に同じ細川正義門下として存在したとしても,おそ/らくは八王子在住の刀工であって,下原鍛冶とは無関係であることは確からしいのである。

 分るようでよく分らない書き方で、特に「正親銘」の実作は「ほとんど見ない」のか「未見」なのか、はっきりさせて欲しい。
 しかしややこしいのは正近と正親だけではない。32行め~258頁11行め、

‥‥。正近は八王/【257】子の古老の間には,偽物作者として有名であり,遂には水無瀬河原で打ち首になったといい伝えられ/ている。終戦前には老人のうちで,正近が繁慶の刀の偽物を作って打ち首になったのを目撃したとい/う人が2~3生存していたから,これは事実であったと思うが,打ち首になっのは初代か,2代か/は,はっきりしなかった。その老人達は正近に2代あったとは考えず,打ち首によって,他郷者*1の刀/鍛冶の正近すはべて終ったと信じていたようである。「刀工総覧」にいう2代目正近が江戸木挽町に/住んでいたのが本当とすれば,初代が打ち首になったので,直ぐに八王子を引上きげて,江戸に移っ/たとも解されるが,「新刀銘集録」に小比企村を木挽村と書いてあったので,これを江戸木挽町にし/てしまったのではなかろうかとの疑いもおこるから,さらに検討を要する。小比企村というのは,今/の中央線八王子駅の南方で,横浜街道に近い地域であるが,浪江介正近はここにいたらしい。表に「於/小比企 正近作」,裏に「文久二年二月日 依近藤勇好」という在銘刀があった。表銘はとにかく許/せるとしても,裏銘は完全な偽銘であったから,証拠にはならないものであったが,‥‥

と、正近の初代二代についてもなかなかややこしい。村下氏の書き方を見る限り、全て一人の酒井濤江介正近という印象を受けるのだけれども。
 ここで注目されるのは、終戦前に酒井正近の斬首を目撃した古老が生存していたとの件で、その場所は水無瀬河原とされている。
 水無瀬河原は浅川の上流、北浅川と分かれた南浅川をやや遡った辺りに架かる水無瀬橋の辺りであろう。八王子事典の会 編著『八王子事典』改訂版を見るに、831頁2~6行め、

水無河原 みずなしがわら
 南浅川の水無瀬橋付近の河原を呼んだ.みなせがわらとも/呼ぶか.武蔵図会に,「洪水の時には水瀬あれども,たちま/ち水涸れて河原となる」とある.浅川には水無川の称もあ/る.

とあって、普通「水無瀬河原」とは呼ばないようだ。2022年11月3日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(3)2022年11月17日付「清水成夫 編『八王子周辺の民話』(2)2022年11月24日付「清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』(05)」に見たように、いづれも「水無河原」としている。――大和田橋は八王子宿の東の外れの浅川に架かるが、水無瀬橋は八王子宿の西の外れに当たる。
 村下氏によれば幕末まで大和田河原は刑場として現役であったことになるが、村上氏の取り上げた「いい伝え」によると刑場は水無(瀬)河原に移っていたようである。(以下続稿)

*1:ルビ「ヨソ モ ノ」。