瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(19)

 どうも大和田刑場と云うものの実態がよく分からない。小塚原・鈴ヶ森に並ぶ「江戸三大刑場」などと云うのは今世紀に入ってから何となく定着してしまった、とんでもない与太だと思っている。そもそも「三大刑場」なる呼称にしてからが2000年までの相当数の文献が検索出来るようになっている国立国会図書館デジタルコレクションでも1件しかヒットしないばかりか、その1件にしてからが小塚原・鈴ヶ森に次ぐ3番めに挙げているのは大和田ではないのである。
 大体、資料が少な過ぎる。小塚原や鈴ヶ森は多くの文献がある。跡地(場所)も明確である。しかし大和田刑場は場所すら定かでない。
・黄木土也『小塚原刑場史その成立から刑場大供養まで二〇〇六年八月五日 初版第一刷発行・定価1600円・新風舎・190頁・四六判上製本

 私は金を払ってまで自分の本を出したいとは思っていないので、新風舎については破産をめぐるトラブルで初めて知ったくらいで、なくなってしまってから図書館で、なかなか面白い本を出しているなと思ったものである。――本書も類書のない中、なかなかよく纏まっていると思うのだが、著者については本書以外の情報が全くなく、奥付上に「■著者プロフィール」に「一九五七年北海道生まれ。/東京都内の会社に勤める歴史愛好家。」とある以上のことは分からない。
 活字化されていない資料を自ら翻刻する(そのため所々読めなかった字を■としてある)と云う努力を怠らず、目配りも利いていて、判断も穏当である。187~190頁「参考文献」に少なからぬ資料を挙げているが、本文には「三大刑場」なる文言は何処にもない。3~4頁「はじめに」の冒頭に、3頁13行め「備中松山藩士の家に生まれた画家平木政次が述べた、幕末の小塚原刑場の回顧談」を引用するが、3頁2行め、

 「幕府時代の刑場は、彼の有名な大森の鈴ヶ森と、千住の小塚原といふ所でありました。‥‥

と、やはり普通の感覚はこうであったろうと思う。黄木氏は鈴ヶ森にはその後も(記述の必要上)触れているが、大和田刑場には全く触れていない。
 黄木氏がどのくらい時間を掛けて本書を書き上げて行ったか、すなわち何時の時点の資料を基準に書いて行ったのかが分らないのだが、黄木氏が参照した江戸時代の文献はもちろん、明治・大正・昭和そして平成の文献にも「三大刑場」などと云う括りがなされていなかったから、黄木氏もそのような扱いをしていないのだとしか思えない。
 だから、何処から発生したか分らぬ「三大刑場」などと云う呼称を無責任に拡散すべきではない。仮にそう云っている人が早くに存したとしても、資料も殆どなく史蹟地の確定も出来ないような場所である。今からでも止めるようにして行かないと、何の実体もない大和田刑場跡を過大評価させるような連中が跡を絶たず、コピペで実体のない「三大刑場」説が(しかし既に)主流になりつつある流れをいよいよ加速させることになるだろう。
 けれども、それにしても情報が少ない。
 そんな折、11月11日付(13)に引用した村下要助『生きている八王子地方の歴史』に、酒井濤江介正近なる刀工が幕末に大和田河原の刑場で斬首されたとしているのを見付けたので、この人物について調べればもう少々分明になるのではないかと国立国会図書館デジタルコレクションに当ってみて、11月12日付(14)から昨日までその伝記資料になりそうな文献を確認して見た。
 ところが村上孝介は水無瀬河原、後藤安孝は竹ノ鼻刑場としていて、八王子ではあるけれども場所が喰違っている。
 そこで遅ればせながら Google や X(Twitter)で検索を掛けてみた。
 すると東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」の、2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」がヒットした。記事タイトルになっている本の正編・続編の新選組関係の項目、特に『続編』の「沖田総司君の需めに応じ」に注目して紹介したもので、その主人公が酒井濤江介正近なのである。
 この『間違いだらけの時代劇』については、私も現物を見て確認してから記事にすることにする。
 さて、東屋氏は「下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた」として、【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】【細川正義】【武蔵太郎安貞】【小栗騒動】【武州下原刀】について調査している。ここでは酒井濤江之介正近について纏めた箇所を抜いて置こう。

【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】
本国は奥州白河。(※関係の有無は不明だが、沖田総司の父は白河藩に仕えていた。)
細川正義の門下として学んだとされる。
天保末年(1843頃)より八王子の小比企村に在住した。
(※埼玉県入間郡越生町にも、正近の工房跡と伝わる場所があるとか。)
弘化3年(1846)、同4年、嘉永6年(1853)などの年紀が入った八王子千人同心の佩刀を鍛造している。
安政2年(1855)、武蔵太郎安貞と合作した太刀(八王子市指定文化財)を高尾山薬王院に献納。
鑑定の鞘書きを残しており、博識で鑑識眼もあった節がうかがえる。
明治初年、偽物を作った廉により、多摩の浅川河原で斬首に処された。
一方、小栗騒動との関連により新政府軍の横暴の犠牲になった、とする説もあるものの詳細不明。
(参考:『刀剣と歴史』2010年5月号 大沢都志夫「酒井濤江介正近について」)


 私がここまで挙げた文献と重なるところ、重ならないところがあるが、ここで注意されるのは東屋氏が参考にした「刀剣と歴史」の論稿である。
 大沢都志夫(1941~2022.3)は刀剣商で昭和42年(1967)開業、埼玉県比企郡ときがわ町五明267にて本店と「しのぎ刀剣美術館」を運営していた。現在は未亡人が隣接する「喫茶しのぎ」を経営している。
 この「刀剣と歴史」は国立国会図書館に行かないと閲覧出来ないらしい。次のHN「歳月堂」の Tweet によると以前はネットで全文閲覧出来たらしいが、今回色々検索して見たが尋ね当らなかった。


 東屋氏及びHN「歳月堂」の紹介を見る限りでは、決定的な新事実・新資料の提示はないように見える。大沢氏が根拠にした文献も含め、出来るだけ早く閲覧の機会を得たいと思っている。(以下続稿)