瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(061)

・鹿島則泰の歿年(2)
 昨日の続き。――無位無冠布衣の者がいきなり問合せたところで、普通まづ相手にしてもらえない。そのために肩書きがあるのである。
 世の中には大した業績でもないのに飛んでもなく脚光を浴びて上り詰めてしまったような人もいるし、特に学者の世界では学問的な業績と地位は必ずしも比例していない(その地位を獲得する才も含めて「学者」の才能と云うのであれば、ぐうの音も出ない)のだが、きちんとその道で認められている人なのだ、と云うことにはなる。その道で実はどれだけ評判が良くなくとも、世間にはそれは分からない。
 いや、いきなり問合せて、意外と上手く運ぶようなことも、全くないとは限らない。
 しかし私の場合、どれだけ真面目にやっているかは当ブログを見てもらうしかない訳で、やはり論文集の単著や抜刷に(仮に内容で劣っていなくとも)遥かに及ばない。
 そこで、無位無冠布衣で何の業績もない私のようなものでも何とかなったかも知れないのは、口利き、と云うことになる。しかしこれも、5年前であれば、と云うことで、5年前では赤堀又次郎には興味がない訳ではなかったけれども、ここまで調べるには余程集中してやらないといけなかった訳で、口を利いてくれる人はいても、口を利いてもらえる程のレベルに私はなっていなかった。
 いや、深沢秋男がネットに公開している鹿島神宮宮司家関係資料を赤堀氏の伝記研究に活用しようなどと云うことになったのも、国立国会図書館デジタルコレクションの拡充があったればこそである。どちらも5年前では実現不能であった。しかし、5年前なら頼めば口を利いてくれる(かも知れない)人がいたのである。なかなか物事は上手く運ばない。
 と云う訳で、問題の鹿島則泰の歿年を記した文献も、国立国会図書館デジタルコレクションでヒットしたものを細かくチェックして行った中で、引っ掛かったのである。
鹿島町史編さん委員会 編集『鹿島町史別巻 鹿島人物事典』平成三年三月二十日発行・192頁
 52頁下段4行め「鹿 島 則 泰*1  慶応三年(一八六七)―昭和二一年(一九四六)」との2行取りの見出しがあって、5~12行めに以下の本文。

 鹿島則文の長男として八丈島で出生。幼名太郎。鹿島で/少年期を過ごし明治一六年上京、皇典講究所(現国学院大/学)入学。同二一年七月東京帝国大学古典科を卒業し、熊/本済々黌の教授となる。翌年秋田県師範学校で教鞭をとる。/二三年鹿島神宮宮司となり、家督を相続。しかし庶出の故/をもって三一年宮司職を弟敏夫に譲り、単身上京。上野の/帝国図書館に奉職、図書館司書養成所で教鞭をとる。従六/位。


 12行め下寄せで〈鹿島〉とある執筆者は鹿島則幸(1908.9.1~1993.12.30)で、鹿島敏夫の長男である。
 生歿の月日の記載のないのは他の人も同じなので(多分)分らなくて書かなかった訳ではない。そして鹿島家は、赤堀又次郎・みつ夫妻の歿年月日も分かっているのではないか、と思われて来るのである。
 ところで、この記載は簡略で、経歴について全く知られていなかった事項などはないのだが、しかし1点、

‥‥、家督を相続。しかし庶出の故をもって三一年宮司職を弟敏夫に譲り、単身上京。‥‥

の辺りが注意される。
 これまでは、前回参照した西村正守「鹿島則泰覚書」にも引用されていた、図書館講習所第七期の彌吉光長(1900.8.25~1996.1.20)が図書館職員養成所同窓会 編集『図書館職員養成所同窓会三十年記念誌』(昭和二十八年五月二十七日印刷・昭和二十八年五月 三 十 日発行・図書館職員養成所同窓会・139頁)に寄せた、35~36頁上段16行め「回   想」の冒頭、35頁上段3~6行め、

 図書館講習所というと青葉が窓にはい込んで来る暗い教/室を思い出す。青年時代政治家志望で鹿島宮司の家を飛び/出した鹿島則泰先生が講談師張りの講義を続けられた。古/めかしいが鮮かな印象を覚える。‥‥

との記述と、こちらは深沢氏がブログ記事に引用している川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』の記述とから、政治家志望のために宮司を辞したような印象を持っていた。しかし実際に政治に打って出た形跡がないので、どうもこの説明は本当かしらん、と思っていたのである。――川瀬氏の本は、5月には借りていたのだが今手許にないので、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る初出の「わが国における書籍蒐蔵の歴史(後篇)」(「かがみ」第三十號(特別號)平成四年三月十日発行・大東急記念文庫・一一五頁)から抜いて置こう。一六頁3~8行め、

 ここで「浜行き」を私に聞かせて下さった鹿島則泰翁のことを言い添えます。則泰翁は鹿島神宮の/神官の家の出で、父君則文は維新の際勤皇の士で、幕府のため八丈島へ流されました。流人の生活中、/島人に産ませたのが則泰翁で長子ですから島太郎と命名されたということです。宮司を継がれました/が、古い家柄の出で父の血を引き一旦は政治家を志して選挙の地盤もあり、実績も持っておられたよ/うで、そのため社会に対しても目が開け、物の考え方も幅があって粋も甘いもかみ分けた、単なる学/識者ではありませんでした。後には弟に宮司を譲って家を出られました。‥‥


 しかし、やはり実態は「庶出の故をもって」嫡長子の長弟敏夫に譲ったのである。それが明治31年(1898)であった理由は、次回考証することとしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「 か  しま のり やす」。