瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(063)

・鹿島則泰の鹿島神宮宮司退任(2)
 昨日の続きで『鹿島人物事典』51頁上段2~11行め「鹿島敏夫」項を見て置こう。まづ見出し「鹿 島 敏 夫*1  明治四年(一八七一)―大正一五年(一九二六)」があり、最後の行は下詰めで〈鹿野〉とのみ、執筆者は鹿野貞一である。鹿島則幸は父親と、51頁下段4行め~52頁上段15行めの祖父「鹿島則文」項は敢えて担当しなかったようだ。
 本文の最初の5行、上部10字分取って衣冠束帯姿の顔写真。

 鹿島則文の二男。少年時代を伊勢/で過ごす。明治三一年神宮皇学館(現/大学)を卒業し、父と共に鹿島町へ/帰り、鹿島神宮宮司を拝命。当時故/あって田中姓を名乗っていたが、こ/の時本姓の鹿島に復した。好学心に燃える青年達のために/桜山塾を開き、子弟の教育にも情熱を注いだ。大正一五年/一二月一一日、在職中に死去。従四位勲六等瑞宝章


 この書き方を見ると、鹿島則文は敏夫の神宮皇学館卒業を待って伊勢を引き払って帰郷し、庶長子則泰を退任させて一旦田中家に出していた嫡長子敏夫を復籍させて後嗣とし、鹿島神宮宮司に補任させたかのようである。
・「官報」第四千六百五十一號(明治三十二年一月四日・印刷局・二四頁)二頁上段18行め~一八頁下段33行め「◯敍任及辭令」一二頁上段39~40行め、

依願免本職          官幣大社鹿島神宮宮司 鹿島則泰
官幣大社鹿島神宮宮司(以上〈三十一年十二/月二十八日 〉同)       田中敏夫

と、確かに「田中敏夫」で、この後鹿島則泰が鹿島家を出たことで、鹿島姓に復することが出来たことになる。
 さて、敏夫はいつから「田中敏夫」だったのだろうか。
・彈舜平 編『御代の花』第三輯(明治十九年四月五日出版御届・同   年五月廿日納本・定價金二拾五錢・桐園出版掛・序二丁+廿五丁+附録)
 御会始(歌会始)に皇族及び全国から寄せられた短歌を集めたもので、類書は既に3月27日付(006)4月7日付(017)に取り上げている。明治十九年の御題は「緑竹年久」であった。
 三丁め裏8行め~廿五丁め表10行め「詠進歌」として全国からの短歌が地域別に載るが、八丁め裏は12人全て「度 會 郡/宇  治」の人だがその9人め(9行め)に、

かきりなくしけれる園の呉竹ハめてたきふしの數そしられす 〈同  郡/同  所〉 田 中 敏 夫

とある。明治19年(1886)十六歳(満14歳)にして既に田中敏夫であった。
 明治二十九年(1896)三月創刊、明治三十年(1897)八月に第十二號を以て終刊となった三重縣度會郡宇治山田町の田園文學會が発行していた雑誌「田園文學」にも、第壹號(明治廿九年三月十六日印刷・明治廿九年三月十七日御屆・明治廿九年三月廿二日發行・六十二頁)二十四~三十四頁「叢談」欄、二十七頁7行め~三十二頁3行め、田中敏夫「鈴屋翁及ひ五十槻翁の書簡」を寄稿している。第二號(明治廿九年四月十二日印刷・明治廿九年四月十五日發行*2・六十頁)十五~二十五「叢談」欄、十八頁13行め~二十一頁11行め「橘千蔭翁が富小路貞直卿に贈りし手翰」は十九頁1行め「田中敏夫(寄)」とある。以後の号には寄稿していないが、第四號(明治廿九年六月十二日印刷・明治廿九年六月十五日發行*3・六十二+四頁)の後付一~四頁「廣告」の一頁下段「寄  附  金」として4人、うち3人めが田中敏夫で「金五拾錢」を寄附している。
 この「田園文學」誌には赤堀又次郎の名も見える(寄稿はしていない)ので以前から注意していたのだが、出来れば詳細に及ぶ機会を作りたい。
 それはともかく、以後、伊勢(度会郡宇治山田町)にて田中敏夫の名を目にすることはないようだ。この鹿島への帰郷については『鹿島人物事典』にある、敏夫が神宮皇学館を卒業したことも理由の1つにはなったかも知れないが、それ以上に父・鹿島則文の立場の変化が影響していると思われるのである。
 この頃、鹿島則文は終生伊勢にあって神宮司廳の仕事を全うするつもりだったようである。嫡長子に当たる敏夫を手許に置いて、鹿島家の家督鹿島神宮宮司の地位を長男の太郎則泰に嗣がせたのも、自分と敏夫はもう鹿島には戻らないつもりだったからではないか。鹿島神宮と鹿島家は不即不離の関係である。田中家がどのような家柄であったかまだ私は詳らかにしていないが、敏夫がこれからも伊勢で神職として生きて行くには、伊勢のそれなりの家格の家の養嗣子になった方が有利だと考えたのだろう。そのことで、自分の地位に不安を感じている庶長子の太郎則泰を安心させることも出来る。もう「田中敏夫」は鹿島には戻らないから、鹿島家・鹿島神宮は「鹿島則泰」が宜しく経営するように、と云う意味を籠めての、則文の隠居と則泰の家督相続であったろうと思うのである。
 ところが明治31年(1898)内宮炎上により則文が失脚したことで、事態は大きく暗転する。
 則泰の鹿島家相続は、則文と敏夫に伊勢神宮と云う地盤があったればこそ、問題なく可能になったことであった。
 しかし、則文の失脚により伊勢での地盤はもろくも崩壊してしまう。敏夫が田中家を出ることになったのは、田中家側が望んだのか、則文と敏夫の側が望んだのか分からないが、とにかく伊勢を引き払って鹿島に戻ることになってしまったのである。
 そうすると、明治23年(1890)当時は伊勢神宮の方が遥かに格上と云うことで問題を生じなかった庶長子則泰の鹿島神宮宮司襲職・鹿島家相続が、俄に一族の間で蒸し返されることになる。当時、出自は非常に重大な問題であったから、まづ則泰本人が強くこれを意識していたはずで、最終的には周囲に強制されるのではなしに(当然、心理的圧迫は強く感じたであろうが)自発的に弟へ鹿島家家督鹿島神宮宮司を譲ることを決断したのであったろう。
 この辺りの事情が、彌吉光長が「政治家志望で鹿島宮司の家を飛び出した」或いは川瀬一馬が「一旦は政治家を志して」と、則泰が自発的に鹿島家を出た、と云う語り方をしていることに反映されているようである。しかし当時の状況を加味すればそう単純な話ではなかったことは容易に察せられると思う。
 なお三男淑男についても触れるつもりであったが、今回は後回しにして、年明け以降に取り上げることとしたい。(以下続稿)

*1:ルビ「 か  しま とし  お 」。

*2:但し印刷日を二重線で見せ消ちにして右脇に明朝体「廿四」、発行日も同様に「廿九」と訂正している。

*3:第五號が同じ日付で出ているが「七月」に組み直し忘れて出したものと推定。