瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(064)

 『文明六年本節用集』の伝来については、5月9日付(049)に見たように川瀬一馬『古辭書の研究』に説が示されていた。川瀬氏は『文明六年本節用集』を実見する以前「或は鹿島氏櫻山文庫の藏本なるべし。」との推測を持っていた。――恐らく桜山文庫に現在も所蔵されているはずだが、伝手がないため調査に入れない、よって推測を述べて置いて、調査の切っ掛けを逃すまい、と云う腹積りであったろう。
 ところが意外にも昭和22年(1947)、『文明六年本節用集』は古書肆より帝国図書館に収まってしまう。川瀬氏は帝国図書館岡田温の好意により真っ先に精査の機会を与えられている。そして『古辭書の研究』の(追記)部分に以下のように述べるのである。
「筆者は嘗て、この書を鹿島氏櫻山文庫の藏本ではあるまいかと推測しておいたが、それは松井簡治博士手寫の櫻山文庫の目録に「古寫節用一册」といふのが見え、赤堀氏は鹿島則文の女婿であるから、同氏が閲覽してこれを紹介し、その後、同氏の許に留つてゐたものではあるまいか。」
 ①桜山文庫所蔵と考えた根拠、②赤堀氏のみが『国語学書目解題』に活用し得た理由、③それがそのまま赤堀家に留め置かれた結果、戦後古書肆に流れたのだろうとの推測を述べている訳である。
 このうち③について、私は5月12日付(052)に、『桜山文庫目録 和書之部』に当時の鹿島家当主鹿島則幸より、叔母赤堀三子すなわち赤堀氏の妻に正式に譲渡した旨、記載されていることを指摘したのだが、②のために借用してそのままになっていたのを、甥が追認する形で赤堀家に譲ったと云うのが「実態」だったのだろう、等と川瀬氏の推測に沿う形の説明を考えたのである。
 しかし、間もなくこれは誤りではないか、と思うようになったのである。
 これも鹿島則泰の歿年と同じく、直ちに追考を上げたいと思っていたのだが、祖母の蔵書整理にかまけて半年以上放置していた。しかし年内には訂正(?)したいと思っていたのでこの機会に簡単に済ませて置きたい。
・古 典 文 庫 第四十七册『上田秋成集1 春雨物語丸山季夫(昭和二十六年五月十五日印  刷・昭和二十六年五月 廿 日發  行・非 売 品・古典文庫・203頁)
 5~36頁、丸山季夫春雨物語、書初機嫌海等に就いて*1」は、当時の古典籍探索の様子を窺うことの出来るなかなか貴重な記録となっているが、ここでは①に関連したところだけ取り上げて置く。すなわち、丸山季夫(1898~1976.7.25)が桜山文庫に『春雨物語』写本が所蔵されていることを知る件、15頁4~13行め*2

 私は適〻職を静嘉堂文庫に奉じてゐる關係で、松井簡治博士の旧藏本を見てゐ/る中に、櫻山文庫書目と云ふ一写本に目をとめた。此の本は明治卅一年十月、松井/簡治博士が塾生に写させたもので、国書と漢籍の部に分れ、漢籍の部は松井博士/の自筆の写である。櫻山文庫は、伊勢神宮の大宮司であつた鹿島則文氏の文庫名/である。則文翁は勤王家として幕末に活動せられた外、伊勢在任中、皇學館の創/設、林崎文庫の修理、古事類苑の出版など、種〻文化方面にも業蹟多く、其の文/庫が珍籍に富んで居ることは、又世に知られてゐる所である。名家の書目を見る/ことは、其の人物の背景を知ると共に、如何なる珍籍が其の時代まで存してゐた/かを知るなど、なかなか興味のあるものである。私も此樣な興味から櫻山文庫を/見て行つた。而して其の中に、‥‥


 この松井簡治旧蔵『桜山文庫書目』が、川瀬氏が「古寫節用一册」との記載を見出した「松井簡治博士手寫の櫻山文庫の目録」なのであろう。
 丸山氏によるとこれは明治31年(1898)10月のものである。
 時期的に見ると前回確認した、鹿島則文や田中敏夫が伊勢を引き揚げて鹿島に帰郷した頃に当たっている。或いは、自分の鹿島神宮宮司退任が決定していた鹿島則泰が、自分の在任中、まだ自分の裁量で調査を入れることが可能なうちに、松井氏に声を掛け、松井氏は書生とともに鹿島入りして目録の作成に当たったのかも知れない。
 そして、その中に『文明六年本節用集』らしきものが記載されているとすれば、どうなるか。
 『国語学書目解題』は明治35年(1902)6月刊だが、4月22日付(032)に引いた赤堀氏の「緒言」に拠れば、明治24年(1891)春に一旦成稿、その後再三増訂して明治27年(1894)にも出版が実現しかけた等とある。この時点でほぼ出来上がっており、以後大幅な増訂を行っていないように読める。
 明治31年(1898)10月に『文明六年本節用集』が桜山文庫にあったのであれば、赤堀氏はそれ以前に『国語学書目解題』のために借覧、もしくは鹿島家を訪ねて泊り込みで調査するような機会を作って、済ませていたと考えた方が良さそうである。仮に持ち出していたとしてもそれは一時的なことで、きちんと返納していたのではないか。
 もちろん『桜山文庫書目』より後に『国語学書目解題』のために持ち出した可能性も、全く考えられない訳ではない。しかし私は、差当り松井簡治桜山文庫書目』に本書と思しきものが見える理由を、上記のように考えて置きたいのである。(以下続稿)
追記赤堀又次郎の長男と思しき赤堀秀雅は明治32年(1899)生である。そうすると鹿島三子との結婚は明治31年(1898)以前、秀雅の誕生が年末であれば明治32年の初めの可能性もあるが、伊勢から鹿島家が帰郷して来た際に縁談が進んだのか、――とにかく鹿島家にとって明治31年と云うのは色々と解釈の難しい年である。

*1:1~2頁「目    次」1頁2行めには「春雨物語・書初機嫌海等について」とあり。

*2:2024年2月16日追記】「15行め4~13行め」としていたのを訂正。