瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(060)

・鹿島則泰の歿年(1)
 鹿島則泰と云う名は別の調べ物の機会にも度々目にしたことがあったはずなのだが、特に注意を払うこともなく過ごしてしまったのだが、川瀬一馬が赤堀氏は鹿島則文の女婿と指摘しているのを見て初めて、5月10日付(050)に述べたように、赤堀氏の学友であったことに気付いたのであった。反町茂雄が『一古書肆の思い出』に印象深く述べている赤堀氏の未亡人は鹿島則文の長女で、鹿島則泰の異母妹であった。
 鹿島則泰に関する先行のブログ記事は深沢秋男のものを中心に5月13日付(053)に挙げて置いた。そのうち Hatena Blog「fuakiの日記」の2012-08-03「国立国会図書館の鹿島則泰」に紹介されている、西村正守「鹿島則泰覚書」(「図書館学会年報」25巻1号33~35頁、1979年3月・日本図書館学会)は、以前読んだように思うのだけれども、やはり深沢氏のブログから思い付いて検索して、読んだのであったろうか。その最後近く、35頁右23~39行めに、

 鹿島則泰の没年ついては,遺憾ながら現在まで詳らか/にし得ない。
「鹿島老は戦時中岡山県和気にいる息子さん(娘さん?)/のところで他界された由,岡田温さん(当時帝国図書館/長)のところに知らせがあったそうですが,年月日はわ/かりません」とは,筆者の問合せに対する岩淵兵七郎氏/(大正14年~昭和9年帝国図書館奉職,後に国立国会図/書館分館長〕の昭和49年元旦,年賀ハガキに添書された/回答であった。岡田さんの帝国図書館長就任は戦後の事/であるのでこの点は記憶違いと思われるが,この件につ/いての岡田さんの答は否であった。岩淵氏も昭和50年3/月物故され,明すべき道のまた一つが閉ざされた。
 また浅倉屋吉田久兵衛氏は,「戦時中,目白辺のしも/た屋におられ,訪れた時寒中暖もない難儀の有様,驚い/て当時入手困難だった炭をなんとか工面し, 差し上げ/た」と回顧されているが,その後は不明との事。大方の/御教示を切に待つところである。

とあるのが当時もそして再読時にも気になったところであった。
 そして、改めて、深沢氏が存命であったら鹿島家への問合せの仲介をお願いしているところであった、と思うのである。――いや、色々不義理をしているのでどの面下げて、と云う気分になって結局頼まなかったろう。そもそも深沢氏に気付かれてしまいそうなことは遠慮して(?)しなかったろう、とも思うのだけれども。
 しかし、ここまで調べて、かつ伝手があるのであれば、問合せるのが上策である。鹿島神宮宮司家のような名家で、一族のことを把握していないなどと云うことは余程のことでもない限り有り得ないだろう。一度は大宮司になった人であり、岡山にいたとして当然実家にも(帝国図書館岡田温に知らせたように)知らせていただろう、と思ったのである。
 この、私の推測が正しかったことはじきに分かったのだが、当時は祖母の蔵書の片付けに本格的に取り組まなくてはならなくなって(今は中休み状態になってしまっているが年末に追い込んでやるつもり)半年以上放置して来た。それを、年が改まる前に片付けて置きたいのである。
 と云って、鹿島神宮宮司家に問合せた訳ではない。それと書いた文献が存するのである。(以下続稿)