瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(062)

 昨日の続き。
・鹿島則泰の鹿島神宮宮司退任(1)
 鹿島則泰は、八丈島で名前も伝えられていない女性から生れた。5月11日付(051)に見た鹿島敏夫『先考略年譜稿』にも引いたように、鹿島則文には八丈島に遠島になる前、既に妻(植松氏)鉉子がいたが子はなかったので、庶長子と云うことになる。鉉子との間には八丈島から戻って後、2男2女を挙げている。しかし則文は、庶子の太郎に「則泰」と云う鹿島氏の通字「則」を含む名を名乗らせ、嫡腹の敏夫・淑男には通字「則」を名乗らせなかった。間違いなく後嗣として育てていたはずなのである。そして実際、
・明治「廿三年〔庚寅 五十二歳〕‥‥十二月四日隠居則泰家督ス」
と、明治23年(1890)12月4日に則泰に家督を譲っている。
 これは「官報」第二千二百二十六號(明治二十三年十一月二十八日・内閣官報局・一六頁)一頁上段8行め~三頁上段23行め「◯敍任及辭令」二頁下段16~18行め、

依願免本職               鹿島神宮宮司 大谷 秀實
                           鹿島 則泰
鹿島神宮宮司(以上〈十一月二/十七日 〉內務省)

とある、則泰の鹿島神宮宮司補任に伴うものであろう。鹿島則文明治17年(1884)から伊勢神宮宮司で、家族とともに伊勢にいた。
・明治「廿五年〔壬辰 五十四歳〕十月二日父則孝君卒年八十宇治今北山ニ葬ル」
・明治「廿六年〔癸巳 五十五歳〕十月十五日母瑳智子卒ス年七十宇治今北山父君ノ傍ニ葬ル」
 鹿島則文は既に、宇治今北山に夭逝した末子五止子を葬っていたが、ここに父・鹿島則孝(1813~1892.10.2)母・瑳智子(1824~1893.10.15)*1も葬っている。
 然るに明治31年(1898)伊勢神宮内宮炎上の責任を負って退任、家族と鹿島に戻ることになる。
・明治「丗一年〔戊戌 六十歳〕五月二日午後十一時半神宮参集所失火同庁類焼 御正殿へ飛火ス風宮へ迀座六月黒木御殿出来迀御六月廿七日依願免本官七月一日事引継三日家族卜帰郷ス神宮ニ在職スル十五年御事ヨリ此ニ至ル二ケ月余寝食ヲ安ゼズ黒木仮殿迀御ヲ終ル」
 この父の不慮の伊勢神宮宮司退任、そして家族が鹿島に戻って来たことが、則泰をして鹿島神宮から出ると云う決断を為さしめたらしい。
 ちなみに鹿島則文はその3年後に歿している。
・明治「丗三年〔庚子 六十二歳〕十月マラリヤ熱ニ感染ス癒エズ」
・明治「丗四年〔辛丑 六十三歳〕四月水戸ニ往テ病ヲ療ス五月十三日特旨ヲ以テ叙従四位十月十日后十時没ス三笠山先塋ニ葬ル」
 次回は、前回の予告に書い(て先刻撤回し)たのだけれども、弟たちの方から鹿島則泰の鹿島神宮退任について眺めて見たいと思う。『鹿島人物事典』の「鹿島敏夫」項と次弟「鹿島淑男」項、そして報知新聞記者で流行作家であった桜巷鹿島淑男について調べるうちに判明したことについて述べることとしよう。〈以下続稿〉

*1:2024年2月16日追記】母の生年を何故か「1819」としていたのを訂正。