瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(53)

 深沢秋男のサイトとして「近世初期文芸研究会」閉鎖後は「老人雑録」改題「深沢秋男雑録」と「深沢秋男の窓」がある旨を書いたのだが、「近世初期文芸研究会」と並行する時期にもブログ JUGEM「傀儡子の日記」と、はてなダイアリー「fuakiの日記」に同日付で同内容の記事を投稿していて、2015年8月30日「感謝、さようなら」という記事を最後に投稿を終了している。しかし生来の筆まめな性格から、ブログの世界とは縁が切れなかったようだ。後者もはてなダイアリーに終了時にきっちり移行してHatena Blog「fuakiの日記」として閲覧出来るようになっている。
 この「fuakiの日記」に、鹿島則泰のことを何度か取り上げている。
2012-07-25「鹿島則泰のこと
2012-08-01「一番名主の鹿島則文
 これはHN「神保町のオタ」のブログ「神保町系オタオタ日記」の2012-02-16「帝国図書館の生き字引鹿島則泰」辺りから着想したのかも知れない。
2012-08-03「国立国会図書館の鹿島則泰
2013-09-05「高原光啓氏 『皇典講究所入黌記』 発行
 鹿島家に遺されている櫻山文庫の鹿島家関係書目*1には、赤堀氏と同窓であり義兄でもあった鹿島則泰の記録がまだまだありそうである。
 ここについでに石井敦編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)の項目も抜いて置こう。44頁1~8行め、

鹿島 則泰 かしま のりやす 1867―194?
 ①茨城 ②東大 ③鹿島神宮宮司茨城県皇典講究
 分所長,1906/帝国図書館司書,1923/退職,1938
 まで同事務嘱託。図書館講習所講師(日本書誌学)
 ◆江戸期の文献に造詣深く,帝国図書館で江戸時代
 の関係資料を系統的に収集した。
〔評伝〕 西村正守「鹿島則泰覚書」(『図書館学会年
 報』25-1,1979.3月


 さて、深沢氏は平成5年(1993)、『桜山文庫目録 和書之部』の編者、鹿島則幸から鹿島家関係書の貸与を受けているが、その当時はこれを発展させる余裕がなく『神宮々司拝命記』を公刊した他はそのまま返却している。そして大学退職後に、川瀬一馬が鹿島則泰を回想していたことを知らされて、鹿島則泰についてネットで調べた結果を報告している訳である。
 しかし、赤堀三子の夫が赤堀又次郎であることを、全く目にする機会がなかったとは思えないのだが、何ともしていない。
 また、三男の鹿島淑男が、鹿島桜巷と云う、実力ある流行作家であることにも、気付いていないように見える。
 さて、実は私の名前は「fuakiの日記」に何度か登場している。女子高に勤めながら博士論文を提出して、まだ論文などを書いていた頃である。もちろん上記「鹿島則泰」関係記事よりも前のこと。
 5月8日付(48)に、赤堀みつ(三子)未亡人から『文明六年本節用集』のみが残ったことを聞いていた弘文荘・反町茂雄が、赤堀氏の蔵書の行方を思った森銑三を弘文荘に雇いながら、ついにそのことで話をすることもなく、結果昭和20年(1945)と云う赤堀氏の歿年が明らかにされずにしまったことを述べたのだが、深沢氏が健在であれば、赤堀氏や鹿島桜巷について生前の鹿島則幸から聞くところがないか確かめることも出来、そして鹿島家の調査について紹介の労を執って下さるべくお願いも出来た訳である。――赤堀家が現存しているか、現在連絡が付いているか、墓所について御存知ないか、確かめたいことは多々あるが、何事も巡合せである。第一、深沢氏の生前であれば、私は赤堀氏についてここまで調査を進めることは不可能だった訳で、そもそもが殆ど関心も持ち合わせていなかったのだから。(以下続稿)

*1:その多くは茨城県立歴史館に「鹿島則幸家文書(鹿島大宮司家文書)」として寄託されているようだ。