瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(14)

・赤堀秀雅②
 赤堀氏の子息と思われる(ほぼ間違いないと思っているのだが確証は得ていない)赤堀秀雅について、大学以降の履歴を見て置こう。
・『京都帝國大學一覽』京都帝國大學
・〈自大正 九 年/至大正十一年〉大正十年十二月二十八日發行*1・五四二頁
 2年分であるかのようになっているのは大正10年(1921)から4月入学に変わったからである。
 二九九~三五二頁「◯學生及生徒姓名 大正十年十一月現在 (イロハ順)」三四三頁14行め~三五二頁「第七 經濟學部學生生徒」三四七頁4行め~三四八頁9行め「大正十年入學」97人中78人め、三四八頁4行め2段め(4段組)に「赤 堀 秀 雅 東 京」が見える。
・〈自大正十一年/至大正十二年〉大正十二年一月二十五日印刷・大正十二年一月二十八日發行・五八六頁
 三二七~三八四頁「◯學生及生徒姓名 大正十一年九月現在 (イロハ順)」三七四頁7行め~三八四頁「第七 經濟學部學生生徒」三七六頁9行め~三七七頁8行め「大正十年入學」77人中54人め、三七七頁3行め2段め(4段組)に「赤 堀 秀 雅 東 京」が見える。
・〈自大正十二年/至大正十三年〉大正十三年三月 廿 日印刷・大正十三年三月廿八日發行・六四八頁
 三六三~四三〇頁「◯學生及生徒姓名 大正十二年九月現在 (イロハ順)」四一九頁13行め~四三〇頁「第七 經濟學部學生及生徒」四二〇頁11行め~四二一頁7行め「大正十年入學」57人中40人め、四二一頁2行め4段め(4段組)に「赤 堀 秀 雅 東 京」が見える。
・〈自大正十三年/至大正十四年〉大正十四年一月三十一日印刷・大 正 十 四 年 二 月 十 日 發 行・六八八頁
 四四七~六二一頁「卒業生姓名 (×印死亡)」六一三頁7行め~六二一頁「經濟學
(イロハ順)」六二〇頁2行め~六二一頁6行め「大正十三年三月學士試驗合格」92人中64人め、六二〇頁18行め4段め(4段組)に「赤 堀 秀 雅 東 京」が見え、3年で無事に卒業していることが分かる。以下、記載内容は変わりないだろうからもう『京都帝国大学一覧』は見なくても良いだろう。
 そして卒業後はダイヤモンド社に入社している。
・『ダイヤモンド社二十五年史』昭和十三年九月 十 日印刷・昭和十三年九月十五日發行・經濟雜誌ダイヤモンド社・296頁
 259~293頁「ダイヤモンド社略年譜」は、1段め「經濟雜誌ダイヤモンド」2段め「其他刊行物」3段め「社屋・工場・支局/其他關係事業」4段め「人事關係」の4段に分けた年表になっているが、「大正十三年」条、273頁4段めに「五月  赤堀秀雅入社」とある。京都帝国大学経済学部を卒業して少ししてから入社したことが分かる。「昭和元年」条、275頁4段めには「一月一日  赤堀秀雅臺灣糖業視/ 察のため出發、六月二日歸社」とある。「昭和九年」条、286頁4段め「一月  赤堀秀雅編輯係となる、/‥‥」とあるのは編輯長相当の任と云うことであろうか。
 なお、52頁の次に「ダイヤモンド社の思ひ出」の扉(頁付なし)があって、その裏(頁付なし)は中央の囲みにゆったりと5行「本篇は、ダイヤモンド社に特に縁/故の深かつた人々、舊社員、舊寄/稿家、創刊以來の讀者、印刷廣告/業者等の寄稿を集めたものである/掲載は到着順によつた。」とあって、次の頁から寄稿が掲載されているのだが、67頁から始まっている。「目次」を見ても60頁前後の10頁余がどうなっているのか、よく分からない。ちなみに112頁まで23篇掲載されるうちの8番め(79頁7行め~82頁1行め)が赤堀又次郎「三原堂と本誌」で、なかなか辛辣なところのある文章である。82頁2行めの下寄りに小さく「(筆者は舊寄稿家、大正十年八月以來昭和六年十二月迄ダイヤモンドに「閑窓雜話」執筆)」とある。
 この赤堀氏の連載については別に確認しよう。大正10年(1921)8月から昭和6年(1931)12月まで10年余、この間の大正13年(1924)5月に赤堀秀雅が入社しているのは、父親が寄稿家であった縁故もあったかも知れない。尤も京都帝国大学経済学部卒業の子息は有能振りを発揮して、この『ダイヤモンド社二十五年史』の頃には「ダイヤモンド」編輯長を務めていたのであった。
・文藝家協會 編纂『文藝年鑑』一九三六年版(昭和十一年三月十五日印刷・昭和十一年三月二十日發行・定價一圓八十錢・第一書房・口絵+327頁)
 169~248頁「第二部 便覽」194頁3段め~「Ⅳ 文化的事業團體」201頁3・4段め4行め~207頁2・3段め12行め「2 雜 誌」202頁4段め14行め~207頁3段め12行め「B  一般雜誌」に、205頁3段め(4段組)13~18行め、誌名は明朝体太字でやや大きく、

 ダイヤモンド 旬刊(其社)麴/町區内幸町二ノ三、電話銀座四一/五五(編輯代表)赤堀秀雅(編輯/部員)石山賢吉、野崎龍七、阿部/留太、相澤周介、五十嵐敏、酒井/又治、以下五十名。

とある。194頁3・4段め2行め~201頁3・4段め3行め「1 新  聞」200頁2段め11行め~4段め15行め「e 主要通信一覽」11社中5番め、3段め28~30行めに、

 ダイヤモンド 麴町區内幸町二/ノ三、電話銀座四一五五(取締役/社長)石山賢吉

とあるように「編輯部員」の筆頭に見える石山賢吉(1882.1.2~1964.7.23)がダイヤモンド社創業者にして社長である。
・文藝家協會 編纂『文藝年鑑』一九三七年版(昭和十二年四月十五日印刷・昭和十二年四月二十日發行・定價一圓八十錢・第一書房・口絵+365頁)
 171~266頁「第二部 便 覽」203~224頁「Ⅲ ヂヤーナリズム」211頁3・4段め4行め~221頁3・4段め2行め「3 雜 誌」の最後、217頁4段め26行め~221頁4段め1行め「h 專門雜誌」219頁4段め10行め~220頁3段め25行め「ト、社會・經濟」220頁2段め16~21行め、誌名はゴシック体でやや大きく、

 ダイヤモンド(其社)旬刊、/東京市麴町區内幸町二ノ三電話銀/座四一五五(代表)石山賢吉(編/輯長)赤堀秀雅(部員)野崎龍七/阿部留太、相澤周介、五十嵐敏、/酒井又治、其他五十名

とある。(以下続稿)
5月2日追記】『文藝年鑑』を『文藝家年鑑』と誤っていたのを訂正。

*1:国立国会図書館蔵本は印刷日欠損。