・叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』(5)樺太から仙台へ
昨日の続きで土方正志「◎解説◎杉村顕道の足跡」の気になったところをメモして置く。
・476頁下段7行め「見い出され」は「見出され」。
・484頁上段16行め「三遊亭可楽」は「三笑亭可楽」。叢書東北の声11『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』の次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」448頁下段3~8行めに具体的に語られているが、八代目(1898.1.5~1964.8.23)。
・485頁、李白「秋浦歌」和訳(軸装)のゴシック体横組みキャプション、5行め「悲しけれ」は写真を見るに「哀しけれ」。なお文語文も現代仮名遣いにしているが、やはり歴史的仮名遣いのままにすべきではないか。まぁ高校国語の古典は早晩滅びる運命にあるにしても。
・487頁上段8~14行め、
・・・・。鶴岡を舞台とした〈顕道怪談〉に「親/戚から聞いた」とか「古老から聞いた」とあるが、/鶴岡への旅で聞き込んだ話があるのではないか。/また、調べてもいたようだ。「鳥海山物語」に出/て来る幕末の庄内の才媛・杉山れんは実在の人物。/著作も残している。顕道はそんな文献にも目を通/していたのかもしれない。
「鳥海山物語」は『怪談十五夜』及び『彩雨亭鬼談 箱根から来た男』に、同題で出ている。その初出であるが、「樺太」9巻2号(昭和12年2月・樺太社)138~145頁、杉村顯「鳥海山物語――傳説」である。国立国会図書館デジタルコレクションに入っているが[国立国会図書館/図書館送信限定]なので閲覧はしていない。
すなわち、昭和12年(1937)に樺太庁豊原支庁豊原郡豊原町(7月1日に市制施行されて豊原市)で発行されていた雑誌「樺太」に発表しているのだが、この頃の杉村氏の状況はと云うと、482頁上段2~13行め、昨日の1つめの引用の続きを見るに、
だが、樺太生活に暗雲が立ちこめる。弘子が結/核に倒れたのである。弘子の病状の悪化に、顕道/は生まれたばかりの息子・優を抱えて、内地への/帰郷を決意した。東京を目指す途中、顕道が仙台/に降りたのは一九三六年だった。いわば途中下車/だったわけだが、仙台には姉と弟(惇)が暮らし/ていた。友人の医師も仙台にいた。途中下車の積/もりが、仙台で弘子に療養生活を送らせることと/なった。夜間女学校の教師、そして曹洞宗系の栴/檀中学校(現東北福祉大学)の教師と、弘子の介/護をしながら職も得た。だが、弘子は一九三八年/に没する。
とある。この辺りは杉村翠の談話「父・顕道を語る」の「樺太から仙台へ」の節に拠っているが、そうだとすると杉村氏は昭和11年(1936)樺太を発つ前に「鳥海山物語」の原稿を託したか、或いは仙台に落ち着いてから、兼ねて約束してあったため「樺太」誌に原稿を送ったことになる。――樺太から長野に『信州百物語』の原稿を送ったように。
しかしながら、「鳥海山物語」も、その前の、前回問題にした「サンデー毎日」大衆文藝選外佳作「先生と青春」も、樺太で執筆したものなのである。すなわち杉村氏が樺太から仙台に移ったのは昭和11年(1936)ではなく昭和12年(1937)なので、その確たる証拠が、前回後回しにするとした481頁の図版なのである。
この図版は下に「『新 坊ちゃん伝』の見返しに残る顕道と妻・光子の筆跡(杉村翠 蔵)」とのキャプションがあるばかりで、何と書いてあるのか、読みも示されていないし「解説」に内容について触れるところもない。そこでここに翻刻して置くこととしよう。杉村氏は鉛筆書、仙台で再婚した後妻の光子の筆蹟は墨書である。後者は仮に太字にして示した。なお2箇所の「光子」にはともに振仮名「てる」がある。
昭和十二年八月樺太を退島す。
その折樺太毎日新聞に此小説を連載中なりし故
急ぎ一應完結させ、原稿を奥山記者に渡す
記念の作品なり。 妻弘子翌十三年十月五日
死す。一周忌後の十四年十一月念一日光子と再婚。
榮、翆の二女を儲く。
翠に贈る 顕道
光子の筆蹟なり
この識語が記憶違いである可能性も捨て切れないが、妻の死に関連した回想であり、やはり次女の談話の方が間違っているのではないか。
321~420頁「新 坊ちゃん伝」の最後、420頁上段4~6行めに、
『新 坊ちゃん伝』友文堂書房/一九四七年
*一九三七年、樺太日日新聞に中川並木のペ
ンネームで「今様坊ちゃん」として連載
とあって、掲載紙が「樺太毎日新聞」ではなく「樺太日日新聞」となっているが、この識語に符合するようである。当時樺太には「樺太毎日新聞」と「樺太日日新聞」ともに存していた。土方氏は原紙を確認しているであろうか。中川並木は豊原の市街から樺太神社への参道にあった明治43年(1910)植樹の並木。
ここで「鳥海山物語」に話を戻すと、「鳥海山物語」に語られている加藤大弐の一件も樺太での執筆であってみれば、鶴岡での調査を経てのものではなく、携行していた書籍に拠る再話の類と考えるべきであろう。昭和初年までの鶴岡の郷土史書類を点検する必要があると考える。(以下続稿)