瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(09)

・若山家の関東大震災(8)佐藤歯科医院②昭和
 昨日の記事に追加しようかと思ったのだが、かなり長くなりそうなので別に投稿することにする。9月6日付(06)に紹介した、祖母の母方の叔父・竹内久雄が当時勤務していた「福島県桑折町/佐藤歯科」の考証だが、国立国会図書館デジタルコレクションがなければ殆ど進まなかっただろう。全文検索出来なければせいぜい『桑折町誌』を閲覧する程度のことしか出来なかったろう。もちろん国立国会図書館デジタルコレクションに収録されていないもの、入っていても国立国会図書館限定公開で閲覧出来ないものもあるから十分とは云えないが、点と点を繋いで筋を引くのは恐ろしく容易になった。
・『日本歯科医籍録』第三版(昭和二十八年九 月 二十五日 印   刷・昭和二十八年十 月 一 日 発   行・昭和二十九年二 月 二十五日 第二版印刷・ 昭和二十九年三 月 一 日 第二版発 行・昭和 三 十 年 七 月 五 日 第三版印刷・昭和 三 十 年 七 月 十 日 第三版発行・定 価 金参千七百円・醫學公論社)
 通しの頁付はない。161コマめ「県 島 福」の目次を兼ねた扉で裏は白紙、次いで「福一」の如き頁付で一六頁。八頁4段め(5段組)12行め~九頁4段め5行め「伊達郡」31人のうち11人め、八頁(171コマめ)5段め32行め~九頁1段め1行め、漢数字と【 】は半角だが仮に全角にした。

武 見 弥八郎 梁  川  町
武見歯科医院【本籍】本県【生年】明/三三・六・二三 【学歴】 大一五日歯卒【登録】/昭二・一・一七第一三四七二号【開業】昭二・一/【公職】町会議員

とあり、23人め、九頁(172コマめ)2段め28~31行め、

佐 藤 義 光  桑折町本町三七
佐藤歯科医院【本籍】本県【生年】明/三二・一二・一二【学歴】昭五日歯卒【登録】/昭五・四・二六第一六八八九号【開業】昭五・五

とある。この佐藤義光が、竹内久雄書簡に「息子さん三人のお住ひの家は全燒やはり体だけ無事なのです」とある「三人」のうちの1人なのであろう。
 宮地清・金子繁雄・竹内久雄の名前はヒットしない。
 さて、巻頭に「發刊のことば」がある。差当り前半を抜いて置こう。

 弊社では大正十四年日本医籍録を創刊、何分にもわが出版界初の企画として、医界はい/うにおよばず、その他関係各方面から多大の讃辞を寄せられ爾来第二十二版を重ねるに至/つた。ところが、これには歯科医師を含まなかつたため、同方面よりの要望に応え、厚生/省、日本歯科医師会等の御援助のもとに昭和二十八年日本歯科医籍録を創刊、これまた斯/界の好評を博するに至つたが、今回さらにこれを改訂増補して第三版を世に送るに至つた/ことは斯界のために喜びにたえぬ次第である。


 一昨日昨日と見たように、大正15年(1926)刊『日本醫籍録』第二版には「齒科醫師之部」があるのだが、これはどうも第二版だけの企画に終わったもののようで、昭和28年(1953)刊『日本齒科醫籍録』までこのような名簿は発行されていなかったかのようである。
 しかし実は、この間に1度だけ日本歯科医師会の企画で同名の『日本齒科醫籍録』が刊行されているのである。
・日本齒科醫師會 編纂『日本齒科醫籍録附 全國齒科醫師名簿 昭和五年七月二 十 日印刷・昭和五年七月二十八日發行・定價金拾五圓・齒苑社・一〇二四+五八〇頁
 前付として頁付のない内務省衞生局長/赤木朝治「序文」1頁(裏は白紙)、日本齒科醫師會長/血脇守之助「序」2頁、「凡例」2頁と版元からの告知が1頁(裏は白紙)あって、続く一~一〇二四頁は歯科医師を登録番号順に表に纏めたもの、1人1行に「登録/番号|族籍|氏名|生年月|登録月日|資格取得月日及資格」を示す。最後は「一五、三〇八」だが直前の番号は「一五、四〇七」だしで「一五、三〇八」はその100番前に既に出ていて「一五、〇八」は誤植なのだが上記「凡例」には「二、齒科醫籍録は調査其他の都合上一五、三〇八番までは收録し‥‥」とあってこの数え間違いの番号を踏襲している。続いて「昭和四年十月一日現在/全國齒科醫師名簿」が道府県別に五八〇頁、これにて開業場所が分かる。
 しかし、表形式の名簿は全文検索に掛けても姓と名が別々に処理されるらしくて上手く引っ掛からない。尤もこれまで取り上げた歯科医たちは登録番号が判明しているから番号から検出することが出来る。半角漢数字を仮に全角にし、表に付き物の余白を詰めて示して置こう。二九七頁14行め「四、四五三|東京府士族|宮地清|同(明治)二七年六月|同(大正)七年八月二七日|同(大正)七年七月日齒」四七三頁8行め「七、〇八七|山形縣士族|金子繁雄|同(明治)二八年八月|同(大正)一〇年一〇月七日|同(大正)一〇年七月日齒」五四四頁4行め「八、一四八|東京府士族|竹内久雄|同(明治)二九年七月|同(大正)一一年八月一五日|同(大正)一一年七月日齒」八九五頁14行め「一三、四七二|武見彌八郎|同(明治)三三年六月|同(昭和)二年一月一七日|同(大正)一五年三月日齒」――『日本醫籍録』第二版の「齒科醫師之部」よりも簡略な情報しか得られないが「族籍」が判明するので参考までに抜いて置いた。『日本歯科医籍録』第三版では武見弥八郎の本籍地を本県すなわち福島県としているが「新潟」とある。「族籍」その他は「官報」に掲載されている「◉齒科醫籍登録」に基づいているらしい。「官報」まで抜いていては煩いので割愛しよう。
「全國齒科醫師名簿」には四一頁上段2行め「金 子 繁 雄 (日齒) 米澤市門東町」一二五頁上段1行め「宮  地   清 (日齒) 月島西仲通リ五ノ二」と『日本醫籍録』第二版と同じ場所に見えるが竹内久雄は見当らない。そして四四~五一頁「福島縣」を見るに、四五頁下段1行めに「武 見 彌 八 郎 ( 試 ) 同 藤田町山崎」とあって、現在の福島県伊達郡国見町大字山崎、東北本線藤田駅の辺りで開業していたようだ。但し資格が(日齒)すなわち「凡例」の「五」にある「日本齒科醫學士」ではなく( 試 )すなわち「試驗合格」になっているのが気になる。直前の四五頁上段14行め「神 津 武 男 ( 試 ) 同 藤田町山崎」の、資格並びに開業場所が紛れてしまった可能性も考えられようか。それと云うのも、他に桑折町本町の佐藤歯科医院に勤務しているらしき歯科医師が見当たらないからである。この推測が正しいとすれば、武見氏は大正15年(1926)3月に日本歯科医学専門学校を卒業後、宮地清の後任として佐藤歯科医院に勤務、昭和2年(1927)1月に歯科医籍登録を受け、昭和5年(1930)3月に日本歯科医学専門学校を卒業した佐藤義光に引き継ぐまで、4年ほど勤務したことになりそうだが如何だろう。
桑折町教育委員会 編纂『桑折町誌』昭和四十四年十月十五日 印 刷・昭和四十四年十月二十日 発 行・非売品・桑折町・口絵+16+736+3頁
 309~360頁「第五章 厚生・福祉」322~360頁「第三節 施設と機関」322頁2行め~346頁「施設」338頁1~5行め「一〇、歯科医院」に、「医 院 名|開 業 年 月 日|営業所在地」として表に3院示されるうちの2つめに「佐藤歯科医院||明 三一、一一、 八|字 桑 島」と見えている。『日本歯科医籍録』第三版に見える住所、桑折町本町37番地は桑折町桑島との境界にあって、同じ場所を指しているものと思われる。これにより佐藤歯科医院が佐藤義光が生れる少し前の明治31年(1898)11月8日に開院していることが分かる。佐藤義光の父が初代院長だったのであろう。そして大正7年(1918)以前に死去し、未亡人がしばらく日本歯科医学専門学校の卒業生を雇いながら経営していたようだ。但し私立日本歯科医学専門学校は明治40年(1907)私立共立歯科医学校として創立されているから初代院長はその卒業生と云う訳ではない。
 当時の院長は佐藤義光で、449~618頁「第七章 教育・文化」450~459頁「第一節 教育行政」459頁「―教育施設現況一覧―(昭和四四年三月現在)」に幼稚園4園、小学校4校、中学校高等学校各1校の所在地や児童数、校長・教頭、校医に薬剤師を示すが、醸芳幼稚園・睦合幼稚園・醸芳小学校・睦合小学校・桑折醸芳高等学校の校医(歯科)が「佐藤義光」である。桑折醸芳高等学校は桑折町大字成田字小峯にあった町立の農業科・家庭科2科の定時制高校(修業年限2か年)で昭和33年(1958)4月設置、昭和46年(1971)3月閉校。
 さて、国立国会図書館デジタルコレクションに『日本歯科医籍録』第四版(昭和三十一年 十 月二十五日 第四版印刷・昭和三十一年十一月 一 日 第四版発行・定 価 金参千七百円・醫學公論社)と第五版(昭和 三十三 年 五 月 二十五 日 第五版印刷・昭和 三十三 年 六 月 一 日 第五版発行・定 価 金参千八百円・醫學公論社)も入っていて、武見弥八郎・佐藤義光の両名とも全く同じ位置に同内容で見えている。それからも続刊されているはずであるが国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来るのは次の1冊だけである*1
・『日本齒科醫籍録』第二十版(醫學公論社)
 発行日は奥付の上部右寄りに「昭和二十八年 十 月 一 日 発    行/昭和二十九年 三 月 一 日 第 二 版 発 行/昭和 三十 年 七 月 十 日 第 三 版 発 行/昭和三十一年十一月 一 日 第 四 版 発 行/昭和三十三年 六 月 一 日 第 五 版 発 行/昭和三十三年十一月 一 日 第 六 版 発 行/昭和三十四年 八 月二十五日 第 七 版 発 行/昭和三十七年十二月 十五 日 第 八 版 発 行/昭和三十八年 九 月 一 日 第 九 版 発 行/昭和三十八年十一月 二十 日 第 十 版 発 行/昭和三十九年 七 月 五 日 第十一版発行/昭和四十三年 九 月 十 日 第十二版発行/昭和四十五年 五 月 二十 日 第十三版発行/昭和四十七年 十 月 三十 日 第十四版発行/昭和四十八年 三 月 一 日 第十五版発行/昭和四十九年 八 月 一 日 第十六版発行/昭和五十一年 八 月 一 日 第十七版発行/昭和五十三年 六 月二十五日 第十八版発行/昭和五十四年 一 月 十 日 第十九版発行/昭和五十五年十一月 十 日 第二十版発行」とある。やはり通しの頁付はない。その上「このアイテムには全文テキスト情報がないため、/全文検索できません」とのことで、以前の近代デジタルライブラリーの頃と同じように見当を付けて見て行くしかない。そうすると195コマめが目次を兼ねた「福島県」の扉で裏は白紙、次いで「福島県索引」三頁、1頁白紙があって「福島 一」の如き頁付で二一頁、一六頁1段め(5段組)8行め~一七頁1段め17行め「伊  達  郡」に33人挙がるうち、18・19人め、一六頁(216コマめ)4段め1~10行めに、

佐 藤 義 光 桑折町本町三七
佐藤歯科医院★福島★明三一・一二・一二/生★昭五日歯卒 ★登録 昭五・四・二六/第一六八八九号★略歴 昭五・五開業★[電]/二四三九
佐 藤 博 貞 桑折町本町三七
佐藤歯科医院★福島★昭九・九・六生/★昭三四日歯大卒 ☆登録 昭三四・八・/一四第四七六二七号 ★略歴 昭三七・四開業/★[電]二四三九


と同じ住所と電話番号の2人が見えている。漢数字は半角。義光(1898.12.12生)と博貞(1934.9.6生)の年齢差からして親子であろう。佐藤義光の生年は『日本歯科医籍録』第三版・第四版・第五版よりも1年早くなっているが、これが正しいとすると当時満81歳である。この後、いつまで生きていたのか、俄に詳らかに出来なかったが、佐藤博貞の歿年月日は明らかにすることが出来た。
福島民報社 編集『福島民報年鑑』昭和60年度版(昭和五十九年 十 月二十日 印刷・昭和五十九年十一月 十 日 発行・定価 四、〇〇〇円(別冊「名鑑編」共)・福島民報社・六一六頁
 六〇九~六一一頁「追悼録」の六〇九頁5段め(5段組)37行め~六一〇頁2段め31行め「◇昭和五十九年一月」条、六一〇頁2段め1~2行め、

 佐藤 博貞 (佐藤歯科医院長)/二十三日 50歳

とある。父と思われる佐藤義光は引退していたのか、まだ現役で院長職のみ引き継いでいたのか、それとも『日本歯科医籍録』第二十版の後に死去していたのか、いづれかは分からない。『日本歯科医籍録』第二十版の生年月日が正しければ満49歳のはずである。子息がいたとして引き継ぐにはまだ若かったはずである。従って、博貞院長の急逝により佐藤歯科医院は閉院したのではないか、とも思われるのである。
 現在、佐藤歯科医院のあった辺り、本町35番地に馬場歯科医院がある。或いは、佐藤歯科医院を引き継ぐ形で開院したのではないか、と想像を逞しくしたくなるのだが、如何だろうか。(以下続稿)

*1:第二十四版(1990年4月刊)も所蔵されているが現在デジタル化作業中で、まだ国立国会図書館デジタルコレクションでは閲覧出来ない。