瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(3)

 一昨日の続き。『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――「3「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ 一九六〇年――一九六三年」の章の〔資料〕には1箇所だけ、この『紀伊の民話』の準備に関する、具体的な記述がある。
 132~140頁「太 郎 座/竜の子太郎初演パンフレットより1961年」は、副題にある通り公演パンフレットの再録らしく、最後(140頁下段12~17行め)に座員28名が列挙されるが松沢・笠井・小林の名は既にない。いや、ここに名前のある人が実は初演に参加していなかったり、色々あったらしいのだがその詳細に及んではいよいよ脇道に逸れるので、このパンフレットに8篇収録されるエッセイの1篇め、133~134頁上段14行め、松谷みよ子「作 者 の 言 葉」を見て置こう。133頁上段3行めより。

 おととしの秋、和歌山へ民話の採集にいった時のこと/である。熊野の山おくに平家の落武者の子孫であるとい/う部落をたずねた。
 戸数わずか十三戸、代々雄牛七頭でたがやしてきたと/いうこの部落は、一つの小さな山がそっくり部落になっ/ていて、そこへ入っていくには谷川にかけられた吊橋一/本というたよりなさだった。
 部落に入っていくと、細い道は石をたたんだゆるやか/な段になっており、道の両側はこけむした高い石垣であ/る。その間をめぐっていくと、畳なら三枚ほどもひける/かとおもう小さな土地に、大切に稲がつくられていた/り、杉苗が勢ぞろいしたりしている。一くれの土もいた/わり育てている山おくのくらしがそこにあった。私はそ/の箱庭のような田んぼや畑をみているうちに「だから私/は龍の子太郎がかきたかったんだ」と、こみあげるよう/に思った。ちょうどその頃私は、龍の子太郎の第二稿を/【133上】かきあげていた。
 部落は貧しかった。ノートをひろげて坐った私に、そ/の家の主人は長いことごとごとやったあげく茶わんに水/をくんで、すまなそうにさしだした。それが精一杯のご/ちそうだった。
 昔ここには旗竹という竹林があったという。機竹とい/うのが本当のようだが、旗とつかうのは平家の落人らし/く面白い。その親竹は一斗ダルほどもある太い竹で、決/して伐ってはならぬことになっていた。それが明治にな/って、桶屋の和三郎というのが伐ってしまった。そのと/き、部落にかわれている雄牛七頭がいっせいに鳴いたと/いうことである。和三郎の一家はその年のうちに死絶え/た。
 和歌山の旅で、この部落のことは、なぜか一番つよく/心にのこっている。「龍の子太郎」を、なぜ自分は書き/たかったのか、ということが、実感としてたしかめられ/た、ということもある。もともと龍の子太郎は、信濃、/秋田の民話を採集する中で、どうしても書きたいと思っ/たテーマだった。民話の採集の中で、自分自身に、また/現代の中で尚かつ共感をよぶものをえらびだし、深める/【133下】のでなければ、民話は単なる懐古趣味になるだろう。
 しかしまた、さきほど親竹を伐ったとき、雄牛七頭が/いっせいに鳴いたという、筋もない、たんなる話の断片/が、私を感動させるのだ。なぜだろうか、人の世からわ/すれられたような部落の、まひるどきでもあろうか、竹/を伐る音、一せいに頭をふりあげて鳴いたであろう牛、/絵としての美しさか、いいようのない神秘さか、といっ/てしまえば身もふたもない。ともかく私の心のおくふか/く、この話は影をおとす。一見無意味にみえるこうした/感動。
 以上二つの感動がこの部落を忘れがたくしているよう/だ、そしてこの二つの要素が龍の子太郎という作品のし/んにもなっているし、新しい作品へのうごめきも、こう/した中から育っていく。


 長くなったが、松谷氏の民話観と創作への影響を窺う資料として全文を抜いて見た(が、今日は分析までする余裕がない)。「おととし」と云うのは一昨日見た「瀬川拓男と太郎座の年譜」に一致する。
 この『紀伊の民話』が実現しなかったことについては、4月28日付「飯盒池(11)」に見た瀬川拓男『民話=変身と抵抗の世界』295~298頁、松谷みよ子「あとがき」にも記述がある。295頁5行め~296頁3行め、

 私が人形劇を通じて瀬川拓男と出会ったのは彼がまだ二十三歳、少年の面影の残る頃でした。折し/も木下順二を中心とする「民話の会」が発足、同じ時期に「民族芸術を創る会」も活動、創造面に理/論面に民話への思いが沸きおこっており、瀬川も人形座の創立に参加、ここでもまた民話の再創造へ/の議論が白熱していました。私は瀬川を通じこれらの運動に触れ、『全国昔話記録』三省堂を手に/民話への、芸術への展望を語る彼の情熱に魅せられたものでした。その共感がやがて私どもを劇団/「太郎座」の創立、ひきつづき、信濃・秋田の民話採訪、『信濃の民話』『秋田の民話』未来社を/まとめる仕事へむかわせることになりました。この本の中に、「秋田の民話について」という一文が/ありますが、当時執筆されたもので、二十九歳の瀬川の姿です。このあと私どもは和歌山の採訪に入/りましたが、本としてはついにまとめることができませんでした。劇団「太郎座」の仕事が次第に忙/しさを増したためでした。
 以来瀬川拓男は民話の採訪や民話運動からある時期はなれ、人形劇・オペラなどによる民話の再創/【295】造へむかうことになります。この間の仕事は一声社より『脚本・龍の子太郎、うぐいす姫 ほか』とし/てひきつづき出版の予定ですが、十五年にわたる劇団生活での凄じい仕事ぶりが、おそらく発病の原/因となったのであろうと思わずにはいられません。


 具体的な状況は『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――から窺うことが出来る。私は「太郎座」の公演にも、テレビ番組にも全く接していないから、この本を読んで初めて瀬川拓男・松谷みよ子そして太郎座が、演劇(人形劇)そしてマスメディアでかなり大きな存在であったことを知って、驚いたような按配なのである。(以下続稿)

日本の民話『紀伊の民話』(2)

 昨日、松沢雅彦・笠井純・小林昭子の3人について「よく分からない」と書いてしまった。
 『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――の各章は、さらに松谷みよ子に拠る概説、当時の〔資料〕翻刻、団員関係者の長めの〔手記〕と短い〔アンケートより〕から成る節に分れている。尤も全ての節が〔資料〕以下の3つを完備している訳ではなく〔資料〕だけの節、〔アンケートより〕を欠く節などもある。「1」章と「2」章は各2節、「4」章は5節、そして121~178頁「3「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ 一九六〇年――一九六三年」の章は1節である。昨日引いた「一九六〇年度の太郎座」は125~159頁〔資料〕の初めに収録されている。122~124頁に松谷氏に拠るこの期の概要を記した「「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ」があるが、これに3人のうち松沢氏のみ見えている。冒頭の段落(122頁2~4行め)を抜いて置こう。

 一九六〇年になるとテレビ局からの仕事は雨霰のごとく降り注いだ。演出部に土生三郎が入り、高野千絵、河/上千鶴子、そこへ水谷章三、田中清子、沢村豪郎、田代弘興、平岡登志子ら、また美術には松沢雅彦、松田治/仁、千野武美、秋野亥左牟、辛島宣夫ら。


 この3人、普通に検索しても最近の、全くの別人がヒットするばかりである。例えば「松沢雅彦」で検索すると白夜書房コアマガジン)元編集者ばかりがヒットする。しかしながら、例によって国立国会図書館デジタルコレクションで検索するに、当人らしき「松沢雅彦」がヒットする。すなわち、雑誌「俳句研究」第11巻第11号(昭和29年11月)第12巻第2号(昭和30年2月)そして「俳句」第4巻第13号(昭和30年12月)は国立国会図書館内限定公開なので閲覧出来ないが、続いて恐らく同じ松沢氏が寄稿している、小出ふみ子(1913~1994.4.8)が主宰していた新詩人社(長野)の詩誌「新詩人」は送信サービスで閲覧可能、第十三巻第 七号(七月号/150集・昭和三十三年六月二十五日印刷納本・昭和三十三年七月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新詩人作品」に、56頁4段め「無 題/東京都 松沢 雅彦」が載り、その後1年間に合計8回7作が掲載されている。
・第十三巻第 九号(九月号/152集・昭和三十三年八月二十五日印刷納本・昭和三十三年九月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新詩人作品」に、53頁1段め11~23行め「意 識/東京都 松沢 雅彦」
・第十三巻第 十号(十月号/153集・昭和三十三年九月二十五日印刷納本・昭和三十三年十月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新 詩 人 作 品」に、57頁4段め7行め~58頁1段め1行め「月 明/東京都 松沢 雅彦」
・第十三巻第十二号(十二月号/155集・昭和三十三年十一月二十五日印刷納本・昭和三十三年十二月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、55頁3段め2行め~3段め1行め「二人の踊り/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 二 号(二月号/157集・昭和三十四年一月二十五日印刷納本・昭和三十四年二月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、54頁1~3段め6行め「日  々/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 四 号(四月号/159集・昭和三十四年三月二十五日印刷納本・昭和三十四年四月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新 詩 人 作 品」に、53頁2~3段め2行め「虹/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 六 号(六月号/161集・昭和三十四年五月二十五日印刷納本・昭和三十四年六月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、57頁3段め13行め~4段め「私の中に/東京都 松 沢 雅 彦」
・第十四巻第 七 号(七月号/162集・昭和三十四年六月二十五日印刷納本・昭和三十四年七月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、58頁4段め「傷ついている何か/東京都 松 沢 雅 彦」
 最後の「私の中に」と「傷ついている何か」は重複である。どうしてこんなことになったのかよく分からないが、これを切っ掛けとして「新詩人」から離れたようである。よって7篇が掲載されていることになる。
 松沢氏はこの間に大学を卒業している。國學院雜誌』第六十巻第三号(昭和三十四年三月 十 日 印刷・昭和三十四年三月十五日 発行・定価 八十円・國學院大学・64頁)49~64頁「昭和三十三年度卒業論文題目一覧」49頁中段28行め~62頁下段13行め「二、学部第一部 卒業論文」52頁上段8行め~53頁中段6行め「 文学科三組」81人中27人め(52頁中段14~16行め)に見え題は「デイレツタントの系譜 デカダ/ ンスへの志向と価値転換につ/ いて―」である。
 そうすると松沢氏は昭和34年(1959)3月に国学院大学文学部文学科を卒業して太郎座に入り、翌年まで在籍していたことになる。
・松沢雅彦遺稿集第一巻<俳句・詩編『秋の蝶』昭和四十五年一月十日発行・定価一二〇〇円・雅甲文庫・132頁
 発行者の松沢甲子と、発行所の雅甲文庫は住所が同じ、すなわち私家版である。
 これも国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービスで閲覧可能)のカラー画像でしか見ていないが帙入の和装本らしい。
 扉、辞世のような句を刷った和紙、肖像写真、筆名「野沢醇」の詩の原稿「血」、中扉、1頁(頁付なし)酒井徳男「序詞」の扉、2頁(頁付なし)黒枠に楷書体で、

 水曜荘主人の酒井徳男氏は去る十二月/一日急逝されました
謹んでここに哀悼の意を表する次第でご/ざいます
昭和四十四年十二月二十日
             編   者

とあって、酒井徳男(1969.12.1歿)の遺稿となってしまった序文が載る。続く3頁に下部中央に「― 1 ―」から「― 3 ―」の頁付があるが3~5頁と見做すべきで、続いて6~7頁(頁付なし)「目   次」、8頁(頁付なし)は白紙で9頁(頁付なし)は「俳 句 編/ 昭和二十八年~三十年/  (十七才~十九才)」の扉、裏から4句ずつ12頁まで12句、その1頁めの頁付が「― 10 ―」なので「序詞」の頁付が誤りと判断されるのである。
 詩誌「新詩人」に掲載された作品は、49~129頁「詩  編/ 昭和二十八~四十三年/  (十七才~三十三才)」に、82~83頁「無  題」84~85頁「意  識」86~87頁「月  明」94~95頁「虹」の4篇が収録されているが異同がある。「日々」は92~93頁「明  日」と改題・改訂されて収められており末尾に(三十四年)とある。「私の中に」及び「傷ついている何か」は106~107頁「宿命のように」と改題・改訂されて収められており末尾に(三十八年)とある。「二人の踊り」は116~119頁「仮  象」と改題・改訂されて収められており末尾に(四十二年)とある。
 130~131頁「あ と が き」は「昭和四十四年 初秋」付で「松 沢 甲 子」が書いている。どのような関係なのか本人は明確に書いていないが、酒井氏の「昭和四十四年 夏ゆくころ」付の「序詞」5頁(頁付3頁)4行めに「松沢甲子夫人」とあるので未亡人だと分かる。
 132頁には「松 沢 雅 彦(まつざわ・まさひこ)」として2~8行めは3字下げで、

昭和十年五月三十日東京青山に生まる。
国学院大学国文科卒業。
昭和四十四年一月九日中部日本新聞東京本社内にて勤務中倒れる。同年一/月十日胼胝性気胸により死去。
昭和二十八年頃より「麦」「青玄」「新詩人」「コンマ」等の数誌に関係/す。
 尚 本冊の作品の約半分は 前記の各誌に発表したものを再録した。

と極簡単な経歴と韻文の投稿先が記されるが太郎座のことは分からない。しかし「目次」7頁2行め以下に関係者を挙げた最初に「題  簽  水 谷 章 三」とある水谷氏は『戦後人形劇史の証言』の編者の一人で「太郎座に参加した人々」には308頁下段18行め「水谷章三(34―38)(文、演)」と見えていて、同時期に太郎座に在籍していた。水谷章三(1934生)の経歴からしても、余所で知り合ったとは思えない。なお前回も引いたが、同じ名簿の少し前(15行め)に「松沢雅彦(34―35)(美)」とあるが、松沢氏の経歴や志向からしてもやはり美術部ではなく文芸部に所属していたのではないだろうか。
 これにて松沢雅彦(1935.5.30~1969.1.10)の経歴は、大まかではあるが判明した。『松沢雅彦遺稿集』第二巻として散文が纏められておれば、太郎座のことなど書いたものもあったかも知れないが、残念ながら続刊されなかったようだ。
 松沢氏と同様に、笠井氏と小林氏についても明らかに出来れば良いのだが「笠井純」だと笠井純一や笠井純子がヒットし、小林昭子は昭和19年度の第13回音楽コンクール(現「日本音楽コンクール」)でピアノの1位、コンクール全体の大賞に相当する文部大臣賞を受賞したピアニストばかりがヒットする。しかしこのピアニストの小林昭子もその後どうなったのかよく分からない。
 今回は国立国会図書館デジタルコレクションで従来追跡を諦めていたような人の経歴を辿っているうちに長くなってしまった。しかし別記事にはせずに次回『紀伊の民話』に話を戻そうと思う。(以下続稿)