瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(06)

 前回の続き。
 さて、この「栗山の医者どの」の話の完全版を、松谷氏は『民話の世界』の11年後、紀州の山間部で聞いてからだと26年ほど後に、前回書影を示した『現代民話考河童・天狗・神かくし』に載せております。187~346頁、第二章「天 狗」、242頁12行め~288頁7行め「二、天狗のいたずらやお客など」、252頁11行め~273頁5行め「天狗のいたずら」の本文(例話)として採用しております。252頁12行め~253頁17行め、

 和歌山の、熊野の奥の栗山の医者どのが、本宮の庄屋の集まりに出かけた。帰り道、こうもり傘/をさして、本宮と、四村のあいだにある大峠へさしかかると、傘の骨の上を、ぷいぷいぷいと渡る/ものがある。*1
「怪しい奴や」
と、ぱっと傘を投げ、抜き打ちに斬りつけたが、手応えがない。三回目にやっと手応えがあって、/【252】きっさき三寸に血のりがついておった。これがなんと、天狗さんで、
「今夜のわざもんにはかなわん、やられたっ」
 と叫んだそうな。
 すると、ゴーッと空が鳴って、空の果てから、友天狗の叫ぶ声がした。
「七十五なびき、つづこうか」
 奈良の大台ヶ原から請川の高山まで七十五、山がある。その山を繋ぐほど友天狗を連れて、あと/につづこうかと、こう叫んだわけだ。*2
 すると、
「なんぼつづいても、今夜のわざものにはかなわん。わざものの、きっさき三寸手前に傷があっ/て、そこを二回くぐりぬけて助かったが、三回目にやられたわ。いや、見事々々」
 と、斬られた天狗さんがいうなり、ふっと、気配は消えて、こうもり傘を手にとると、もう、軽/かった。
 やっとひと息ついた医者どのは、峠のお地蔵さんのそばにある水飲み場で血のりを洗い、四村を/通って、ひち川のかげ山のそばの水飲み場で、二回目の血のりを洗った。それから栗山の親戚一族/は、大峠のかげ山の水飲み場で、水は飲まれんという。嘘ではない。ついこのあいだも、かげ山の/水を飲んで、腹痛*3を起こし、大騒ぎしたものがあったと。
                              和歌山県松谷みよ子/文――【253】


 254頁以降は「分布」で41話が列挙されるが、その40番めに272頁16~17行め、

和歌山県東牟婁郡本宮町。本文。*4
  話者・村の人。採話・松谷みよ子(東京都在住)

と、話の舞台が東牟婁郡本宮町であることが明示されていますが、残念ながら「本宮町」の何処か、書いてありません。また「話者」の姓名が分からないにしても『民話の世界』は「木こりのおじいさん」と性別職業が示されておりましたが、こちらではそのような情報がなくなっています。
 さて、松谷みよ子の「現代民話考」と云うと、立風書房版かちくま文庫版によって専ら言及されておりますが、元来が松谷氏が中心メンバーとなって活動していた日本民話の会の機関誌「民話の手帖」にアンケート葉書を綴じ込んでテーマ毎に募集して纏めて行ったものですので、書籍に先行して「民話の手帖」にも発表されているはずなのですが、雑誌「民話の手帖」の情報はネット上に乏しく、俄に「天狗」が何号に載ったかを突き止めることが出来ませんでした。それ以外にも、何かの機会に書いて、発表したこともあったかも知れません。もし見付けたら気付き次第註記して、必要があれば別記事にして検討することとしましょう*5
 もちろん、これは松谷氏によって整定された本文です。――誰が、どの時点で、何のために書き起こしたものか、に注意を払うべきだと私が考えるのは、そういったことがやはり書き振りに影響を与えると思うからで、この話の場合も、雑誌版の本文(例話)として、中央で活躍する松谷氏の頭の中で咀嚼され整理し直された、すっきりした本文になっているように見受けられます。ある程度語りを活かしながら、流石に巧みに書けてはいるのですが、悪く云えばこなれ過ぎていて、少々土地臭さの薄れた、すっきりしてはいるものの「採話」にしては何処か作り物と云うか、余所々々しい印象を与えるものとなっているように思われるのです。
 まづ、土地の人間が冒頭に判り易く「和歌山の」等と言うはずがありません。そして熊野から地続きの大台ヶ原について「奈良の大台ヶ原」などと県で句切って呼ぶような発想などなかったことは、松谷氏本人が『民話の世界』での回想で述べているところです。ところがそのとき「赤面した」はずの松谷氏本人が、文章に纏めるに際して、あっさり余所者の発想を語りの中に持ち込んでしまうのです。
 ――『現代民話考』には「松谷みよ子/文」や「回答者・松谷みよ子」の話が少なからず載っていて、中にはごく短い話や、再話のしようのない、ほんの断片もありますが、この話のように、他の本文(例話)に比べて妙にこなれた印象を受ける話が少なくありません。それから、話を聞いた時期や場所がはっきりしない(はっきり書いていない)ものも少なくありません。そこで、私は「松谷みよ子」の名で報告されているものについては、どうしても他の資料も参照しなければ、と云う気分にさせられてしまうのです*6
 さて、前回、高山は請川の対岸の別の地域で「請川の高山」と称されることはなかったろう、と書きました。確かに「請川の高山」と呼ばれることはなかったはずですが、5月7日付(04)に見た『紀伊風土記』第三輯、卷之八十五「牟婁郡第十七」の前半、一七一頁上段3行め~一八一頁上段「四 村 莊 與牟羅  總二十四箇村」として24箇村が、請川村・高山村・小津荷村・大津荷村・津荷谷村*7・耳打村・皆瀬川村・蓑尾谷村・田代村・大野村・和田村・靜川村・野竹村・渡瀬村・下湯川村・湯峯村・久保野村・平治川村・曲川村・檜葉村・小々森村・皆地村・武住村・大瀬村の順に記述されておりまして、中近世には同じ括りにはなっておりました。和歌山県東牟婁郡(現、田辺市)本宮町は、南西の「四村荘」だった地域と北東の『紀伊風土記』卷之八十五の後半に記述される「三里荘」だった地域から成っておりまして、明治22年(1889)の町村制施行により請川村・四村・本宮村・三里村・敷屋村となって昭和31年(1956)に旧「三里荘」の本宮村・三里村、旧「四村荘」の請川村と四村、それから敷屋村の旧「四村荘」だった高山と小津荷が本宮町となりました。但し敷屋村のうち旧「三里荘」だった篠尾・西敷屋・東敷屋は本宮町ではなく熊野川町(現、新宮市)に加わっております。
 地理院地図で検索しても「大峠」と云うのがヒットしないのですが、「本宮と、四村のあいだにある」と云うのですから本宮から湯峯へ越える「大日越」のようです。峠に「鼻欠地蔵」と云う石仏があって、これが「峠のお地蔵さん」でしょう。附近に湧水はありそうにありませんので「そばにある水飲み場」は湯峯方面へしばらく下った辺りかと思われます。
 しかし、そもそもの「栗山」がよく分からぬのです。地理院地図で検索すると最寄りでは熊野川町(現、新宮市)瀧本に「栗山」があって、ここらしく思われます。松谷氏が漢字を当てていない、すなわち地名を地図上で同定出来なかった「ひち川」は、大塔川(筌川)の源流である大塔山(1121.9m)の東斜面に発して南に流れる、古座川本流の源流部の「七川谷」らしく思われるのですが、本宮からの帰りだと南西に数km、奇怪な回り道をすることになってしまいます。或いは、大塔山の西側を流域とする日置川の聞違いでしょう。「四村を通って」の「四村」が四村荘のことではなく、町村制施行時に四村川流域に成立した東牟婁郡四村を指しているとすれば「栗山」は本宮の南南西に位置する新宮市熊野川町瀧本ではなく、本宮から大日越を経て西へと熊野街道中辺路を進んで小広峠を越えた日置川の流域の何処か、或いは更に西かも知れません。しかしながら、俄に何処だか分かり兼ねるのです。
 天狗を斬ったのは「庄屋の集まり」の帰りですから江戸時代のこととして、いえ「こうもり傘」を持っているので明治に入ってから、庄屋は明治五年(1872)に戸長と改称されていますが、なおしばらく旧来の庄屋がその役を務めておりましたので「庄屋」との称呼もしばらく行われていたかも知れません。そうすると下限は明治9年(1876)の廃刀令、幅を取れば町村制施行まで、と云うことになりましょうか。そして「ついこのあいだ」と云うのですから昭和30年頃まで祟り(?)があったことになります。つい70年前です。この辺り、郷土史家の意見を聞きたいところです。(以下続稿)

*1:ルビ「ほんぐう/よ むら」。

*2:ルビ「うけがわ・つな/」。

*3:ルビ「はらいた」。

*4:ルビ「ひがしむろ 」。

*5:ちくま文庫版は今手許にありません。見次第追記することとします。

*6:2020年3月27日付「飯盒池(07)」も『現代民話考』の本文での説明不足、そして地名などの確認不足のために検証を行ったようなものです。

*7:大津荷の南東の谷にあった津荷谷は廃村で現在の地図には記載がありません。