瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

画博堂の怪談会(2)

 1月12日付(1)に「読売新聞」に写真が載っていることを紹介したが、実は昭和女子大学の紀要「学苑」第八百四十三号(平成二十三年一月一日発行)に掲載の吉田昌志泉鏡花「年譜」補訂(六)」に、既に指摘されていた。詳しくはCiniiの該当ページで閲覧出来るので、参照されたい(58〜59頁)。
 「読売新聞」の記事は一昨年にヨミダス歴史館で検索して見付けていたが、吉田氏の補訂がいずれここにも及ぶだろうし、このブログも開設しておらず発表の場もなかったので放置していた。吉田氏の続稿がなかなか出ないので、ブログも開設したし出してみるか、と確認せずに出してしまった次第である。もちろん、大学紀要と一ブログとでは重みも違う訳で、少しくらいこっちが早かったとしても大して意味もないのだが……。
 松井清七の死亡記事までは出していないが、それは泉鏡花「年譜」に載せる性格のものではないからだろう。とにかく(1)で述べたことは既に指摘済みのことに気付かずに書いたのであった。ここに記して、お詫びします。
 そこで、お詫び旁々、別の新聞の記事を紹介しておきたい。「万朝報」に出ていることは、(1)にも書いたように岡林リョウのブログ「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」の「2008-10-17怪談田中河内介・調査報告その2」に指摘・紹介されているが、「東京朝日新聞」にも記事が出ていた。大正3年(1914)7月13日(月曜日)付第10051号、(六)面1〜2段目には漱石「心*1」の「先生の遺書(八十一)」が掲載されている。これは単行本(大正三年九月二十日發行・定價金壹圓五十錢・岩波書店・2+目次+426頁)では「下 先生と遺書」の二十七である。
 それはともかく、(五)面、9段組の6〜7段目に、以下の記事が載る。総ルビであるが読み違えそうな箇所だけ注として、大半は省略した。

●死んだ友から手紙*2
   ▽嘘ではなからうが變な話
昨夜八時から京橋東仲通畫博堂の三階/で開催中の妖怪畫*3展覽會を背景*4に妖怪/談が初まつた▲鈴木鼓村氏の話に昨年/の八月甲なる友人に三圓の金を借りた/儘死んだ乙といふ男から甲の處へ十日/程過ぎて後に手紙が來た、讀んで見る/と生前は誠に御厄介になつて有難かつ/た實は生前君に借りた金を返濟せぬ中*5/に死んだので誠に殘り惜しい、君は一/面識もないだらうが僕の友人に芝西久/保*6に住居*7する丙といふものがあつて僕/は此男に三圓の金を借して居るから甚/だ申兼ねるが西久保の丙に逢つて金を/貰つて呉れまいか、丙は君と同樣僕の/葬式に會葬して呉れた男で所は斯樣/々々と慥に書いてある▲不思議だと思/つて手紙を繰返して讀むと紛ふ方なき/乙の筆蹟だ、其處で怪しみ乍ら丙を訪/ねて譯を話すと慥に乙の手紙*8*9が可笑/しいと話*10て居る處へ其家の妻君*11が出て/來て此手紙は文字こそ異*12つて居るが何/時の何時頃*13慥に貴郎*14(丙をいふ)が書い/たので私は變だと思ひながらポストに/入れた覺えがあると云ひ出した▲夫も/歴然とした證據があるからハテは乙の/魂が乘移つて丙をして書かしめたの/であらうと云ふ事であつたが奇妙な/話だ


 鈴木鼓村(1875〜1931)はこの会のことを「怪談が生む怪談」(初出紙未確認、(1)に挙げた東雅夫編『文藝怪談実話』所収)に書いているが、そこには「私の鈴鹿峠の話」とあるのみで、この話には触れていない。他のこの会についての記録にも、この話は見えないようだ*15

*1:ルビ「こゝろ

*2:この見出しには傍点▲あり

*3:ルビ「おばけゑ」

*4:ルビ「バツク」

*5:ルビ「うち」

*6:ルビ「にしのくぼ」

*7:ルビ「ぢうきよ」

*8:ルビ「しゆし」。他のところは「てがみ」

*9:原文ママ。この他ルビに濁点を欠くものがいくつかある。

*10:ルビ「はなし」

*11:ルビ「さいくん」

*12:ルビ「ちが」

*13:ルビ「いつ・なんじごろ」

*14:ルビ「あなた」

*15:死人から葉書が来たという類話は「幽霊と怪談の座談会」(東雅夫編『鏡花百物語集(ちくま文庫・文豪怪談傑作選・特別篇)』(二〇〇九年七月十日第一刷発行・定価880円・筑摩書房・378頁)などに所収)などにも見えている。