瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(14)本文④

 日記の3日め。【 19 】頁上段2行めから【 21 】頁上段9行めまで。
 要領はこれまでに示した通りで、新字で代用した漢字は「習・記・墨・浮・掻・産・寝・騒・絶」です*1

 ×月×日
 大圓氏はいつも旅館へ床屋へ招いて調髪する習慣だのに、けふは珍ら/しく床屋へ出掛けると言ひだした。自分はお供を申付けられた。*2
 床店の主人は趣味とみえて柱掛に短册なぞをかけてゐた。*3
「君は、かういふもんが好きかね」*4
 大圓氏は他所行のことばでやりだした。自分はヒヤリとした。*5
「は、好きなもんですから、お客さんから書いて頂いたもンを樂しんど/ります。……失禮でございますが……さきほどからさう思つとるのです/が……先生は常盤座へお出でになつとる大圓先生ではありませんか」*6
「さうです」
 自分はそばから答へねばならなかつた。*7
「てつきり、先生に違ひないと存じて居りました。どうもご盛んな人氣/で結構でございますネ」*8
「わしも、かういふもんが好きでネ」*9
 大圓氏は鷹揚にやつた。*10
「それは、まことに結構なこつて……先生がこんな店にお越しくださる/とは、夢にも思はれまへん。記念にしときたいと思ひますよつて、是非/一筆お殘しくださいますやうに……どうぞ……失禮で恐入りますが……/オイ……」*11
 親方は弟子を呼んだ。*12【19上】
「先生に書いて頂くネン、墨を當つとけ、それから色紙と新らしい筆を/買うて來い」*13
 自分は大變なことになつたと思つた。このまゝ色紙や筆を揃へさせて/は、それこそ〃お主の一大事〃である。なんとかウマク捌きをつけなけ/ればならない。下手にまごつけば月給泥棒はおろかなこと、まさに切腹/もンだ。*14
 自分は名刺を出して親方に渡しながらいつた。*15
「新堀町のみくにや旅館に居ますから、あとからお弟子さんにでも色紙/を屆けさしてください。書いて頂いて、ちやんと落款も入れてもらつて/あげますから」*16
 歸途――*17
「お前は平常くらやみの牛みたいにボヤツとしてるが、イザとなるとな/かなかエヽとこあるな」*18
 と、賞めてくれたが、今日は月給十圓あげたるとはいはなかつた。*19
 午後床店の弟子が持つて來た色紙は、むろん自分が代筆、大圓の落款/で渡してやつた。*20
 午後八時樂屋入り。*21
「圓八さんのおかみさん來てまつせ」*22
 上草履を持つて出迎へてゐた圓一が、そつと自分に囁いた。大圓氏に/隨いて廊下を通りながら舞台を覗くと、圓八君が切のバラシをやつてゐ/た。*23
 いつもの通り、薄暗い廊下に、座員達はズラリと並んで、樂屋入りの*24【19下】大圓氏を迎へた。その後に白い顔が一つ浮んでゐた。*25
「ほゝう、おふく來たんか……おいで、おいで」*26
 大圓氏は上機嫌だつた。圓八君の細君は笑顔で答へて、叮嚀におじぎ/した。*27
 幹部の人達と一緒に大圓氏の樂屋部屋に這入つたおふくさんは、茄子/紺に白い十字絣の着物の襟をキチンと引きつめて着て隅の方に坐つてゐ/た。*28
 それは〃おかみさん〃とか〃細君〃とか呼ぶには、あまりにふさはし/からぬ娘々した樣子だつた。*29
 あたまは右で分けた髪をうしろで結んで、暗紅色の大きなバラの造花/を差してゐた。顔は寫眞で見た通りだつたが、女の浪花節語りに特有な/どこか垢拔けのしてゐないところが、却つて魅力となつてゐるやうだつ/た。*30
「いろ/\お世話になりまして……このたびはまた……」*31
 おふくさんは、キチンと兩手を重ねて頭をさげた。*32
 そこへ圓八君が入つてきた。*33
「えらいベッピンになりよつたナア。ほんのしばらく見んうちに……/いつぺんに女前をあげよつた。これやつたら圓八離さんのン無理ないわ/い」*34
 大圓氏は目尻の皺を深めた。圓八君テレクサさうに頭を掻いた。おふ/くさんは耳のあたりをすこし紅くした。*35
「先生、これ……」*36【20上】
 圓八君が菓子折のやうなものを差出した。*37
「なんヤ、これ、土産もんか、すまんな。およし、開けて見」*38
 大圓氏は、そばに坐つてゐる二號氏にアゴで指圖した。*39
「ほゝう……」
 大圓氏は仰山に驚いて見せた。*40
「これなんぼや、三圓か……圖星やろ、およし、五圓やつといて、おタ/メや、こんなん貰ふたんびに損やガナ」*41
 一行十五人。女といへば大圓氏の姉でそのカゲを彈く五十に近いをば/さんと、前座のカゲ兼女中代りのをばさんの二人だけである。おふくさ/んを迎へた大部屋はなんとなく調子づいてゐた。*42
 自分が大部屋に這入つてゆくと、おふくさんは、*43
「どうぞよろしく……」と挨拶した。自分はたゞ「ハ……よろしく」と/禮を返へしたゞけであつた。*44
 圓八君の鏡のそばに、ハンドバツグが、婦人雜誌の上に置いてあつ/た。〃この女雜誌なぞ讀むのかナ〃自分は不審に思つた。それほど、女/の浪花節語りには雜誌など讀むものが少ない。*45
 旅館に歸つてから、自分等の部屋の前を寝衣すがたのおふくさんが通/つた。*46
「ふくちやん、ちよつとおいで」
 自分と同室の手代立花君が、小聲で手招きしたが、おふくさんはたゞ/笑つただけで小腰をかゞめて通つてしまつた。*47
「あゝこわ? あんなん聞えたら騒動もンや……殺されるがナ……そや*48【20下】けど、ちよつとエヽ女やろ」*49
 立花君は首をちゞめた。*50
「いゝ女ですね」自分は簡單に答へた。*51
「見てゝみ、これから喧嘩の絶え間ないよつてにえらいもン來よつた」*52
 おふくさんは、女を高座に上げないこの座の習慣から、三味線だけを/ミツチリ修業するのださうな。*53
 なるほど一座の人達の噂に違はず、およそ不似合な夫婦だ。どうして/あの二人が夫婦になつたのだらう?*54
 常盤座打上げ。入り七分。*55

*1:2021年2月27日追記はてなダイアリーからの移行時「館」が「邢」と文字化けしていたのを修正。

*2:ルビ「だいゑんし・りよくわん・とこや・まね・てうはつ・しふくわん・めづ/とこや・でか・い・じぶん・とも・まをしつ」。

*3:ルビ「とこみせ・しゆじん・しゆみ・はしらかけ・たん」。

*4:ルビ「きみ・す」。

*5:ルビ「だいゑんし・よそゆき・じぶん」。

*6:ルビ「す・きやく・か・いたゞ・たの/しつれい・おも/せんせい・ときはざ・い・だいゑんせんせい」。

*7:ルビ「じぶん・そば」。

*8:ルビ「せんせい・ちが・ぞん・を・さか・にんき/けつこう」。

*9:ルビ「す」。

*10:ルビ「だいゑんし・おうやう」。

*11:ルビ「けつこう・せんせい・みせ・こ/ゆめ・おも・きねん・おも・ぜひ/ふで・のこ・しつれい・い/」。

*12:ルビ「おやかた・でし・よ」。

*13:ルビ「せんせい・か・いたゞ・すみ・す・しきし・あた・ふで/か・こ」。

*14:ルビ「じぶん・たいへん・おも・しきし・ふで・そろ/しゆ・だいじ・さば/へた・げつきふどろぼう・せつふく/」。

*15:ルビ「じぶん・めいし・だ・おやかた・わた」。

*16:ルビ「しんぼりちやう・りよくわん・ゐ・でし・しきし/とゞ・か・いたゞ・らく・い/」。

*17:ルビ「きと」。

*18:ルビ「まへ・へいぜい・うし/」。

*19:ルビ「ほ・けふ・げつきふ・ゑん」

*20:ルビ「ごごとこみせ・でし・も・き・しきし・じぶん・だいひつ・だいゑん・らく/わた」。

*21:ルビ「ごご・じがくやい・」。

*22:ルビ「ゑん・き」。

*23:ルビ「さうり・も・でむか・ゑん・じぶん・さゝや・だいゑんし/らうか・とほ・ぶ・のぞ・ゑん・くん・きり」。

*24:ルビ「とほ・うすくら・らうか・ざゐんたち・なら・がくやい」。

*25:ルビ「だいゑんし・むか・うしろ・しろ・かほ・ひと・うか」。

*26:ルビ「き」。

*27:ルビ「だいゑんし・じやうきげん・ゑん・くん・さいくん・ゑがほ・こた・ていねい/」。

*28:ルビ「かんぶ・ひとたち・しよ・だいゑんし・がくやへや・はい・す/しろ・じかすり・もの・えり・ひ・すみ・ほう・すわ/」。

*29:ルビ「さいくん・よ/むすめ/\・やうす」。

*30:ルビ「みぎ・わ・かみ・むす・あんこうしよく・おほ・は な /さ・かほ・しやしん・み・とほ・をんな・かた・とくいう/ぬ・かへ・みりよく/」。

*31:ルビ「せわ」。

*32:ルビ「りやうて・かさ・あたま」。

*33:ルビ「ゑん・くん・はい」。

*34:ルビ「み/をんなまへ・ゑん・はな・むり/」。

*35:ルビ「だいゑんし・め・ふか・ゑん・くん・あたま・か/みゝ・あか」。

*36:ルビ「せんせい」。

*37:ルビ「ゑん・くん・くわしをり・さしだ」。

*38:ルビ「みやげ・あ・み」。

*39:ルビ「だいゑんし・すわ・がうし・づ」。

*40:ルビ「だいゑんし・ぎやうさん・おどろ」。

*41:ルビ「ゑん・づほし・ゑん/もら・そん」。

*42:ルビ「かう・にん・をんな・だいゑんし・あね・ちか/ぜんざ・けんぢよちうかは・り/むか・おほへや・てうし」。

*43:ルビ「じぶん・おほへや・はい」。

*44:ルビ「あいさつ・じぶん/れい・か」。

*45:ルビ「ゑん・くん・かゞみ・ふじんざつし・うへ・お/をんなざつし・よ・じぶん・ふ・おも・をんな/かた・ざつし・よ・すく」。

*46:ルビ「りよくわん・かへ・じぶんら・へや・まへ・ねまき・とほ/」。

*47:ルビ「じぶん・どうしつ・てだいたちはなくん・ここゑ・てまね/わら・ここし・とほ」。

*48:ルビ「きこ・さうどう・ころ」。

*49:ルビ「をなご」。

*50:ルビ「たちはなくん・くび」。

*51:ルビ「をんな・じぶん・かんたん・こた」。

*52:ルビ「み・けんくわ・た・ま・き」。

*53:ルビ「をんな・かうざ・あ・ざ・しふかん・みせん/しゆげふ」。

*54:ルビ「ざ・ひとたち・うはさ・たが・ふにあひ・ふうふ/り・ふうふ」。

*55:ルビ「ざうちあ・い・ぶ」。