瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(35)

 大宅氏の問題設定を見て置きましょう。「」章は抄出のつもりでしたが、結局全部引くことになってしまいました。(本欄424)頁上段11行め〜中段20行め、濁点付の「くの字点」は「%\」としました。ちくま文庫347頁16行め〜348頁13行め。

 しかし問題は、せい%\紙芝居の顧客程度/の兒童心理の上に發生した荒唐無稽の流言/が、|文字通り燎原の火の如く全市にひろが/り、中等學校の少年少女に及び、更に大人の/世界にま|で入りこんできたといふ事實に存す/るといはねばならぬ。【文庫347頁】
 これまでだつてこれに似た流言の發生する/チヤンスはいくらもあつたろう。事實この種/の|流言が、一つの町内や長屋の間に野火のや/うにひろがつて、一兩日の間に自然と消えて/行つ|た實例は珍らしくない。別に大人が乘り/【本欄424上段】出して水をぶつかけなくとも、子供の理性で/十分消|しうる程度のものである。
 だのに、こんどはラヂオ・ニュースの力ま/で借りないと消しとめられないやうな大火に/な|つてしまつたのだ。これに似た流言の大火/は、かの大震災當時における「朝鮮人暴動」/のそ|れであるが、あれとこれとはまるで事情/が違つてゐる。思ひがけない自然の大災厄に/遭つて、|當時大多數の人々は家財を燒き、近/親を喪つて、發狂に近い心理状態にあつたの/であるが、|今は非常時といつても、人々の生/活は理性を失はしめるほど窮迫してゐるとは/考へられない。
 それでは近年大東京市民の智能が急速に低/下して、紙芝居に好奇の目を瞠る兒童や、怪/談|を愛した江戸時代の婦女子や、日蝕に驚く/未開人のレベルに近づいたかといふに、僕は/決し|てさうは信じない。それよりも僕は、こ/れは現代ヂャーナリズムに對する一つの皮肉/な「抗|議」ではないかと思ふ。


 この中では「これに似た流言の大火は、かの大震災当時における「朝鮮人暴動」のそれである」との指摘が重要です。――今後検討して行くつもりですが、赤マントの出現を昭和14年(1939)2月よりも早い時期のこととする資料が複数存在します。或いは、それ以前の出現もあったかも知れません。しかし、やはり記憶違いもあろうかと思うのです。すなわち、これらの先行説は全て後代になってからの回想で、同時代資料の提示がありません。昭和14年説とて似たような感じだったのでこれらの説と同列、いえ近年ではそれ以下の扱いしかされて来なかったのですが、実は20余年前に小沢氏がこの「「赤マント」社會學」を提示しており、私も今回複数の新聞記事を発掘しました。昭和10年或いは昭和12年とする説には、こうした裏付けがないのです。記憶が当てにならないことは、これまで見て来た通りです。
 仮に記憶違いではなく、確かに赤マント出現の噂があったのだとしても、新聞雑誌等の同時代資料の殆どが、このような噂が以前から行われていたことに全く注意を払っていないことに、注目しない訳には行きません。この昭和14年の赤マントが、非常に大きな、「朝鮮人暴動」に比肩するような(大袈裟じゃないかという気もしますが)突出した事象として意識されているのです。従って、これ以前の例があったとしても、大宅氏が云う一般的な「この種の流言」と同様、あまり大袈裟にならずに収まってしまった、11月19日付(29)に引いた「東京だより」に云う「局部的な」現象ということになりましょう。――11月4日付(14)に引いたように、岩佐氏が世田谷の小説家Kの「こんな話は日露戦争の当時にも流行ったそうだよ。」との発言を記録していますが、30年以上前のことになりますから、昭和の「赤マント」とは一応切り離して扱うべきものでしょう。
 続く「三」章で、大宅氏は「二」章の最後に述べ、また副題にしている「活字ヂャーナリズムへの抗議」を赤マントの背景として指摘します。要するに報道規制が行われて事件の報道が「興味本位」から「火消し」を主眼とするものに移ったため「活字一般」が読者に「ほんとのことは書いてない」という印象を与え、こうした「活字ヂャーナリズム」に対する「抗議」がこのような「流言蜚語」を助長したと云うのです*1。最後の段落だけ引用して置きますと、(本欄427)頁下段7〜9行め、ちくま文庫353頁5〜6行め、

 僅か一ケ月ばかりではあるが、全帝都を風/靡した「赤マント事件」も、實はその「抗/議」|の幼稚な、原始的な形態なのである。

という訳なのですが、この大宅氏の文はいつ書かれたのか明示されていませんが、11月18日付(28)にて見たように掲載誌の奥付には3月23日印刷/4月1日発行とあり、当時はほぼその通りの順序だったとして印刷日の頃には既に終息、2月23日の「ラヂオ・ニュース」で「消しとめ」たのであれば、もっと前に終わっているはずなのですが、どうせ正確な終息時期は分からないでしょう、とにかく3月半ばには落ち着いていたと見て置けば良いのでしょう。(以下続稿)

*1:2014年11月2日追記】赤マントに関する大宅氏の分析について紹介したものは、夙にscopedogのブログ「誰かの妄想・はてな版2014-10-26「赤マントは復活するか」に引用されている「20世紀の歴史 Vol.89 日中戦争2」(1975年11月5日発行)の「「赤マント」の怪」がありました。これは「中央公論」に拠り大宅氏の「「赤マント」社会学」だけではなく「東京だより」も参照しています。すなわち昭和50年(1975)に昭和14年(1939)と明示しながら埋もれてしまった文献ということになります。私も追ってこの雑誌を確認して見ることとします。