瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(69)

 繰り返しになりますが、赤マントの東京での流行が昭和14年(1939)2月であったことは、久しく忘れられ、さらに加太氏の昭和15年説によって混乱させられていて、なかなか正確な時期が示されなかったのでした。
 それが、昭和末年から平成初年に掛けて、昭和14年とする文献がいくつか登場します。11月16日付(26)に挙げた、昭和63年(1988)9月刊『犯罪百話 昭和篇』に、「中央公論昭和14年4月号に発表された大宅壮一「「赤マント」社会学」が収録されたのが、早いようです。ところがその後、10月24日付(03)で見たように、昭和11年(1936)と誤った昭和62年(1987)6月刊『学校(現代民話考[第二期]II)』を承けた中村希明・朝倉喬司昭和11年説が登場し、こちらの方が流布してしまった訳です。現在のWikipedia「赤マント」項の説明は、基本的に物集高音『赤きマント』を踏襲しています。物集氏は中村氏・朝倉氏に触れておらず、知らなかったのか知っていて触れなかったのか知りませんが、やはり昭和11年以前としています。物集氏の説については追って詳しく紹介した上で批判を加えるつもりです。ところで、Wikipediaは未だに昭和11年説のままですが、個人ブログの記事では如何に確実な根拠を挙げてあったとしても典拠になし得ないからで、誤った根拠に基づく思い付きに過ぎない説でも活字になっていた方が信用がある訳です。それなら、誰かの稿料稼ぎに使われてそっちの方が典拠にされてしまう前に、私にどこか概要程度でも書かせて欲しいと思うのです。当方、学会誌及び商業誌に執筆経験あり、ブログですからだらだらと書いていますが要点を手短に述べることも可、今のところそういう記事を書いていないのはコピペする人々の使いやすいネタになるだけになりそうだし、まだまだ資料紹介に手間が掛かりそうだから、自分が次に進める見込みがないのに慌ててまとめる必要を感じないだけなのです。時間は掛けていますがお金は交通費くらいしか掛けずに資料は所蔵機関で筆写するか借りられる場合は借りて入力するといった按配で、複写代も始末してやっているくらいなので、自腹を切ってまで本にしようとかいうつもりは、ありません。そうなると紹介記事の形で雑誌か何かに簡潔にまとめて報告したい、というのが現在の希望なのです。持出しにならなければ良いので稿料なんか最低ランクでも宜しい。なんせ博士(文学)ではありますが研究職でも何でもないので。理想は、関係資料集成編纂と解説執筆ですが、そんな赤マント本を作ったって売れやしないでしょうから。
 それはともかく、昭和14年としている文献を追加して置きましょう。
・『大衆文化事典』平成3年2月25日初版1刷発行・弘文堂・前付X+1034頁・B5判上製本
 初版は書影が示されないので、仮に縮刷版を示して置きます。但し未見。

大衆文化事典

大衆文化事典

 横組みで左右2列、8頁右5〜27行め*1

赤マントの怪人
東京市中に出没して女子どもを襲い,生き血を吸った/り,生き肝を奪うという赤マントを着たせむしの怪人の/ことで,1939年の初め頃,小学生の間からはじまって大/人にまで蔓延した流言。赤マントにつられて青マントの/怪人も現われたらしく,「赤マント,青マント」と連呼/されて子どもたちを震え上がらせた。また当時は防共教/育が徹底していたから,中学生(旧制)や女学生の間で/は赤マントの「赤」から共産党を連想したらしく,共産/党関係者の仕業と思い込んだ者も少なくなかったとい/う。その頃,当局は国家非常時の名目のもとに,強盗,/殺人,心中といった市井の事件を新聞が興味本位に報道/することを禁じていたが,それに対して大宅壮一は「多/くの読者は現在の新聞記事に以前のように興味を感じな/いばかりでなく,それを疑ふ気持ちが強く働いてゐる。/新聞記事に対する一種漠然たる不信が,一部インテリの/間のみならず,大衆層の間にまで広がりつつ在るやう/だ」と指摘,赤マント騒ぎを枕にして息苦しくなってき/た言論統制に一矢報いた。口裂け女,流言    (鷹橋信夫)
〔主要文献〕 大宅壮一「"赤マント”社会学・活字ヂャーナリズムへの抗議」『中央公論』4月号,1939.清水幾多郎『流言蜚語』日本評論社,1937(岩波書店,1947).中村古峡『流言の解剖』愛之事業社,1942.〔巻末文献表〈2 噂・口コミ〉参照


 大体は大宅氏の文章に依拠していて、生血や生肝は11月20日付(30)、防共教育は11月21日付(31)に抜いて置きました。それから新聞記事の辺りは引用はしませんでしたが11月25日付(35)に触れております。但し「青マント」は大宅氏の文章にはありませんので、何処かから借りてきたのでしょうけれども、昭和14年2月の新聞記事にはやはり「青マント」は出て来ませんので、ここにその当時のことのように「青マント」を差し挟んだのは適当ではなかったと思います。それから「赤マント」とは別に「青マント」が登場したという風に読める資料は、後年のものも含め(今のところ)私は目にしていません。しかし「赤マント,青マント」の2人でコンビを組んで帝都を跳梁したら、凄いことになったろうという妄想が一瞬浮かんで来て、少し愉しくなりました。
 それはともかく、〔主要文献〕に挙がっている清水幾多郎『流言蜚語』と中村古峡『流言の解剖』には「赤マント」は出て来ない(ようです)ので、正直なところ、別に「流言」項もあり〔巻末文献表〕もある訳なので、この2つはここには挙げない方が良かったろうと思います。ちなみに「清水幾多郎」は清水幾太郎(1907.7.9〜1988.8.10)の誤りで、873〜981頁、44項から成る「大衆文化文献表」の876頁37行め〜877頁21行め「2 噂・口コミ」の876頁に〔主要文献〕に挙がる3点はほぼそのまま出ておりますが、ここでもやはり「清水幾多郎」となっております。
 執筆者の鷹橋氏は編集委員(10名)の1人で、奥付の上部の執筆者紹介(50音順)の7人めに「鷹 橋 信 夫 たかはしのぶお/1936年生れ 著述業」とあります。
 さて、大宅氏は「新聞にその取消記事を書かせたり」と書いていました。鷹橋氏は「1939年の初め頃」としていますが、大宅氏の原文を読めば、昭和14年2月頃に新聞記事が出たであろうことは、見当が付けられたろうと思います。しかしながら、その後20年、新聞記事探索の作業に着手する者がいなかった訳です。いえ、いなくはなかったけれども上手く行き当たらなくて見付けられていなかった訳です。(以下続稿)

*1:2016年5月15日追記】大分前から入力ミスのあることに気付いていたがうっかりしていて確認の機会を逸し続けていた。「国歌非常時」となっていたのを「国家非常時」と訂正した。また大宅壮一の引用中「のように」は原文のママ。2015年4月30日付(144)に取り上げた鷹橋信夫『昭和世相流行語辞典』では「のやうに」となっている。この他にも異同があるが、私の興味は飽くまでも噂の内容にあって解釈にはないので、大宅氏のコメントはメモしなかったため今、初出誌の表記の確認が出来ない。これもいづれ確認の機を得たいと思う。