さて、新聞記事に戻る前に、紙芝居「黄金バット」と絡めた回想を取り上げてみましょう。
- 作者: 粟津潔
- 出版社/メーカー: 現代企画室
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 単行本
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2頁(頁付なし)に【本書について】という編集部による凡例があって、「本書は一九八三年に書かれた原稿を編集したものです。/脚注は編集部で作成しました。/‥‥」等5項目あります。但し「脚注」とありますが本文が下にあって注や図版はその上に入っておりますので「頭注」です。本文1頁15行、1行31字、頭注は明朝体太字でその語を示し、行を改めて1行16字で説明しています。
執筆の経緯は巻末、222〜230頁、中原祐介「好奇心が生きる力」の冒頭に、以下のようにあります。
本書の原稿は、もう二五年以上も前、ある出版社のこども向けのシ/リーズの一冊として書かれたものだといいます。どういう経緯があっ/たのか私は知るよしもないのですが、刊行は結局日の目を見なかった/そうです。
少しおかしな文章で、昭和58年(1983)に執筆された原稿が平成18年(2006)に刊行されているので「二五年」は経っていません。それはともかく、これが執筆直後に刊行されていたら「赤マント」の研究史ももう少し変わっていたか、とも思うのです。
3〜5頁(頁付なし)「もくじ」を見るに34章から成っておりますが、3頁10行めに「8――赤マントとだまされた万年筆 52」とあって(半角数字は横転)、52頁1行めに同じ題が大きく入っておりますが、この8章(52〜58頁)の初めにかなり具体的な回想が述べられています。
その頃、夕方になると「ひとさらいの『赤マント』が出るぞ!」とい/う噂が広がっていました。赤マントのことは、当時、新聞にも出たで/きごとでした。夕方になると、「赤マント」が出て、子どもをさらって/いくというのです。
ぼくは、毎日のように紙芝居の『黄金バット』を見ていましたから、/黄金バットとその「赤マント」が、入りまじった夢を見たことがあり/ます。黄金バットが電柱の上に現われて、赤いマントをヒラヒラさせ/ながら、電線の上をスイスイと渡っていく勇ましい姿でした。
ですから、ひとさらいの出る夕方になると家を出て、街の電柱の上/などを、「赤マント」がいるのではないかと、恐る恐る眺めて歩いたも/【52頁】のでした。ところが、どこの電柱にも「赤マント」はいません、ただ電/線の向こうに夕焼けの空があるだけでした。
「赤マント」のことは、誰か言い出したデマでした。それが、東京の/街中に広がって、新聞にも出るようなことになってしまったのです。/当時、自由主義者や社会主義者は、「アカ」とよばれていました。「赤マ/ント」の「赤」は、自由主義者や社会主義者のことを指す言葉で、彼ら/を悪人に仕立てるためのデマゴギーだったのです。その話は、実は、/ぼくが少し大きくなってから人から聞いたことです。
「デマ」というのは、社会が不安な時代にどこからともなく出てくる/ものです。それは、支那事変や大東亜戦争を前にした時代の不安から/生まれたできごとであったわけです。
この「その頃」がいつか、ということですが1つ前の47〜51頁「7――学校の成績が、ガタガタに落ちた」では、「四年生になった第一学期」の「第一学期だけで転任し」た「神山先生という、太った顔にそばかすのある女の先生」そして「夏の夕暮れ」に見た「近くに住んでいる画家のアトリエ」が回想されています。
同じ8章の中盤では、54頁14〜15行め「 四年生の二学期になったときに、岡部先生という若い師範学校出の/先生が赴任してきました。‥‥」となっています*1。
そうすると、この間に位置している赤マントの回想は、読者には夏の夕暮れの色彩を帯びて浮かび上がって来てしまうので、11月1日付(11)に引いた「夏の盛りに、赤いマントででてくるなんて許せない」との発言の主、小沢信男「わたしの赤マント」の川端氏ならば目を剥きそうな按配ですが、とにかく問題は、これが昭和14年(1939)2月よりも前なのか、後なのか、ということになりましょう。回想の内容とともに次回検討を加えて見ることとします。(以下続稿)
*1:【2017年8月14日追記】『粟津潔デザイン図絵(復刻版)』(2006年5月15日初版発行・定価2,800円・青幻舎・462頁・A5判並製本)368〜369頁「写真・小学校四年の時の記念写真」は「‥‥先生頌徳碑」の前で掲載された集合写真で、生徒が約55名、後ろに教員らしき女性が4名写る。粟津氏は368頁、一番右に立つ女性の前におり、369頁左上に「4年2組 粟津潔」と題して粟津氏の顔だけ拡大してある。これが『不思議を眼玉に入れて 粟津 潔 横断的デザインの原点』のカバー表紙の顔写真である。