瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(265)

・中村希明『怪談の心理学』(17)
 昨日の続きで、続く35頁9行め「報道管制とデマゴーグ」の節を見て置きましょう。まづは前半、35頁10行め~36頁5行め、

 戦時色が強まるにつれて、軍需工場の多かった北九州の小学校でも、「敵間諜*1の謀略によ/る『流言蜚語*2』に惑わされないように」とのきついお達しが先生の口を通じていい渡され/た。こうした軍部の報道管制が強くなるほどデマゴーグは猛威をふるうことになる。
 ロンドンがドイツ空軍の猛爆にさらされていた危機に、恐怖デマがほとんど起こらなか/った理由は、英国戦時情報局が「国民に正確なニュースを迅速かつ完全に提供する」とい/うデマ防止の社会心理学的鉄則を厳守していたからだ。国民が政府から最悪な情況につい/【35】ても真実を知らされていると確信していれば、内心の不安を静めるためにかえって恐怖を/あおる「恐怖デマ」は起こらない。
 この英国戦時情報局の基本方針とは対照的に「退却」を「転進」といいくるめた「大本/営発表」は、デマの心理学からみると反面教師だった。したがって、広島、長崎の原爆投/下すら知らされない戦争末期には、数々の荒唐無稽な「恐怖デマ」が乱れとんだ。


 中村氏が現在の北九州市の小学校に通っていたのは2014年1月8日付(078)及び2014年1月7日付(077)に見たように、京城から転校して来た昭和15年(1940)から昭和19年(1944)3月の卒業までです。
 「恐怖デマ」に関する同様の見解は、赤マント流言の直後に夙に提示されていました。すなわち、昭和14年(1939)4月号の「中央公論」掲載の大宅壮一「「赤マント」社會學/活字ヂャーナリズムへの抗議」の「三」章について、要約を2013年11月25日付(035)に示して置きました。この大宅氏の評論は、中村氏が本書を執筆する以前にも、既に昭和63年(1988)に小沢信男が、2016年8月2日付(152)等に見たちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に収録しており、小沢氏よりやや早く鷹橋信夫が昭和61年(1986)に、2015年4月30日付(144)に見た『昭和世相流行語辞典』に利用、指摘しており、2013年12月29日付(069)に見た『大衆文化事典』にも、これは平成3年(1991)刊ですが、同様の項目を執筆しております。これは恐らく2016年9月15日付(153)に見たように、昭和60年(1985)刊行の『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』によって検出したものと思われます。いえ、2014年11月3日付(141)に挙げた、scopedogのブログ「誰かの妄想・はてな版2014-10-26「赤マントは復活するか」に引用されている「「赤マント」の怪」は、「20世紀の歴史」という雑誌の昭和50年(1975)11月5日発行「Vol.89 日中戦争2」に出ているようです。恥ずかしながらまだ見に行っていないのですけれども。
 私は国立国会図書館での検索によって昭和14年(1939)であることを知った後発組で、かつ、資料の多くをネットを活用して検出しましたから(昔ながらの文献を辿って行く手法で見付けた資料も少なからずありますが*3)偉そうなことは云えません。しかし、これら先達が蔑ろにされて、未だに昭和11年だとか青ゲットの殺人事件に由来するなどと云う妄説を垂れ流す輩を目にすると、正直複雑な気分にならざるを得ないのです。――正解は、とっくの昔に示されているのに、と。そして、中村氏が本書執筆当時、これらのうちのどれかに引っ掛かっていたらと思うのです。
 それはともかく、中村氏の記述に戻って戦中の「恐怖デマ」にまで話を広げると収拾が付かなくなりますし、しっかりした研究もありましょうからここでは深入りしません。(以下続稿)

*1:ルビ「かんちよう」。

*2:ルビ「 ひ ご 」。

*3:新聞記事の大半は国立国会図書館マイクロフィルムを繰って見付けましたけれども。