瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(78)

・中村希明『怪談の心理学』(6)
 中村氏の赤マント体験談は「「赤マント・青マント」の恐怖」の節にもう1つ述べられています。29頁14行め〜30頁11行め、

 当時の小学校低学年生間の赤マントの怪談の大流行は、鎖の一つの中で筆者のように自/己増幅した恐怖が再びデマの連鎖の環へと回帰しては無限に増幅された結果である。そし/て「集団ヒステリー」現象を起こしたものであろう。*1【29頁】
 筆者は紀元二千六百年の祝典にわく翌昭和十五年に今の北九州市に転校してきたのだが、/当時の小倉市の小学校のトイレにも赤マントの怪人はついてきた。といっても噂は大分前/から広まっているらしいのに、京城でも内地でも誰一人として赤マントに殺された被害者/を見ていないのも不思議であった。
 ある日、「本当に殺されていたぞ」と息せききって教室にかけこんできた同級生がいた。/皆でおそるおそる件のトイレをのぞいてみたのだが、便槽にはごく少量の血液が浮かんで/いるばかりであった。今考えてみると、たぶん痔出血か経血だったのであろう。
 しかし、幼児期から思春期にかけては、自分の創造したイメージが今眼前で知覚してい/るようにありありと見えてくる「直観像所有者」がいる。この年代の子供にとっては、た/とえ便槽に浮かんだわずかな経血であっても、赤マントによる惨劇の充分な証明になるの/である。


 前回確認したように、中村氏は昭和13年(1938)4月に小学校に入学したのだと思われます。そうすると初めてこのデマを体験したのは昭和13年(1938)の可能性もあって、今のところその可能性を否定し切る自信はないのですが、昭和14年(1939)2月に東京に端を発したデマは、後述しますが大阪で拡まったのが昭和14年(1939)夏、朝鮮半島でそれよりも早かったということはないでしょう。自己申告通り「昭和十四年」小学2年生の昭和14年度の体験と見て置けば宜しいかと思います。下限は昭和15年(1940)に福岡縣小倉市に転校しているから確定出来る訳ですけれども、転校前の昭和14年度と、転校後の昭和15年度と、転校を挟んでその前後の記憶と見て置くこととします。2013年12月30日付(70)で見た、中村氏と同学年の山中恒も、転校ということがあって、赤マントのデマに出会った時期がはっきりしているらしいのでした。

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 便所に血の付いた紙があった、ということで騒ぎになったような記憶は、私にもあります。但し、赤マントその他の妖怪の話のない小学校でしたので、それは何となく異常な感じを私たちに与えただけで、誰かが殺されたとか、何者かに襲われたとかいう話には、ならなかったのですが、それでも騒ぎになり、私は行きませんでしたが、その話を聞いたクラスの男子の大半がどっと便所に駆けて行ったのを覚えています。それにしても、何であそこまでの反応を示したのか、今思い返すと不思議で、当時の私もやはり、そんな受け止め方をしていたように思うのです。――そういう性格だからこそ、級友たちから怪談の聞書きをしたり、怪談についてこんな風な、想像力を放恣に膨らませるのでない、取扱いをするのかも知れません。(以下続稿)

*1:2020年8月29日追記】文末「‥‥である。」と誤っていたのを訂正した。