・新潮文庫2226(3)
昨日の続きで、「家紋」のヒントとなった著作について。但し私が見たのは松本氏が参照した版ではなく、後年改題されたものである。
・中野並助『犯罪の通路』昭和六十年十月二十五日印刷・昭和六十年十一月十日発行・定価398円・中央公論社・273頁
273頁の裏、奥付の前に「本書は『犯罪の縮図』(昭和四十五年三月、法務/省法務総合研究所刊)を改題したものです。」とあるが、著者・中野並助(1883.3.1〜1955.5.23)に無関係に為されたこの改題には、どうした理由があるのだろうか。もちろん昭和45年(1970)刊『犯罪の縮図』では、2012年9月17日付「松本清張「装飾評伝」(4)」でも触れたように昭和42年(1967)に「十二の紐」と題して連載された『死の枝』の依拠するところとはなり得ない。もともとは、前回紹介した「赤きマント」の記述にあるように、著者生前の昭和22年(1947)刊行なのだが、そのことはこの中公文庫版『犯罪の通路』には示されていない。9〜10頁「自序」にも年記がなく、269〜273頁の竹内四郎「解説」は中野氏の人となりを知るに良いものだけれども、本書の由来については触れるところがない。これでは困るのである。
ちなみに昭和45年(1970)版は法務省の刊行物なのに国会図書館に所蔵されていない。いくつかの大学図書館に所蔵されているが、未見。
さて、私の見た中公文庫版『犯罪の通路』は、先に示した定価から察せられるように消費税導入後のカバーが掛かっており、カバー裏表紙の下部に「ISBN4-12-201374-7 C1136 P410E 定価410円」定価の下に明朝体で「(本体398円)」とある。カバー裏表紙には他に、右上に明朝体縦組みで紹介文が入っているが、
終戦時、検事総長の職にあった著者/の貴重な捜査体験記。永年、地方の/検察庁を転々とし、仕事を、酒を愛/した名物大型検事がつづる「怪汽船、/大輝丸」「訴訟マニア」「少女殺人魔・佐/太郎」など、人間の不思議を見つめ/る四〇篇。
とあるのだが3〜6頁(頁付なし)の「目次」で勘定するに39篇しかない。
なお、カバー表紙折返しの上部に背広姿の写真があって明朝体縦組みで、その下に「著者紹介/中野並助*1」、さらに下に、
明治十六(一八八三)年、群馬県に生まれる。
四十二年東京帝国大学法科を卒業。検事とな/り、函館をふり出しに、名古屋、富山、神戸、/大阪、浦和、横浜などの各地検で数多くの捜/査を手がけ、福井、札幌、東京の各地検検事/正となる。昭和十五年広島、十六年大阪の各/高検検事長、十九年検事総長に就任。二十一/年公職追放により退官し、弁護士となる。三/十年死去、七十二歳。
とある。
カバー裏表紙折返しに「犯罪と法の現場から(中公文庫)」の目録があって明朝体縦組みで上段12点、下段7点、本書は10番めに見える。左下に明朝体縦組みで「カバー画・原 誠」。
福井を舞台にしているのは28篇め、173〜177頁「一家みな殺し、寺院焼却事件」と29篇め、178〜181頁「赤毛布を着た殺人鬼」の2篇で、前者の最後の段落(176頁12行め〜177頁3行め)に
私は福井に来てみて特に感じたのは、この県下に殺傷事件が極めて少ないということであ/る。これは明らかに全県下に圧倒的勢力を有する真宗の教化であろう。夏の夜に一晩中安眠/を苦しめた蚤さえも、殺さないで庭に逃がしてやる。ひとの陰口などは絶対に言わない。教/祖親鸞の教えに背くからである。同時にまた犯罪の挙げにくいのにも信仰が与って力がある。/捜査上の聞き込みができないのだ。犯罪の検挙には人の告げ口、噂などが有力な糸口になる/のだが、福井ではこれがほとんどとれない。信仰によるのである。だから二年に一度か、五/【176頁】年に二度くらいしか発生しない殺人事件は、まずことごとくといってよいほど、未検挙のま/まで残されている。事件がまれなので検察方面の不馴れなためもあろうが、特殊の現象であ/る。
とあり、後者の冒頭(178頁2〜10行め)にも、
刑事の手腕は聞込みの上手下手によって決まるといってもよい。ところが上手下手の問題/どころか、全然聞込みのできない場所がある。私は福井へ来てから、この寺の事件のほかに、/まだ二件ばかり殺人事件を迷宮に入れている。
福井では昔から大きな事件というと大方迷宮にはいっているとの聞いた。これはもちろん/警察やわれわれの責任であることはいうまでもないが、一つはこの辺の信仰! 地面を歩く/時にも蟻を踏み殺さないように気をつけるほど、すべて生物を殺すまいとする善心は、犯罪/を知っても自分の口からは決して口外すまいとする。これが検挙に影響することは否めない。/一つにはかつての捜査の失敗。それがためにその地方全体が迷惑した。うっかりしたことは/言えないという。地方民のこの心理が、また非常に検挙の邪魔をしているのである。‥‥
とあって、この辺りの記述が前回引用した「家紋」冒頭の一節、これは随分短く纏められているけれども、これに続く事件の内容の方にも、多大な影響を与えているのである。
ところで「家紋」では「検事総長」の「回想記」で紹介されている「或る地方」が、福井県と容易に分かる、この小説の舞台である「こうした地方」とは違っているように、もちろん「回想記」に述べられている事件とこの小説の事件とが別々のものであるかのように、細工されているのだけれども、これも実は、同じなのであった。
【2021年5月28日追記】コメントについて(質問コメントは公開にしないことにしています)。2冊の関係は文庫版の奥付の前にある通りでしょう。「家紋」はもちろん「赤毛布」の方です。
*1:ルビ「なかのなみすけ」。