瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

北杜夫『楡家の人びと』(08)

 7月13日付(07)の続きで、「北杜夫全集月報 6」に載る「創作余話(6)」の冒頭部を引いてみよう。1頁上段3〜8行め、

「楡家の人びと」は「幽霊」と共に、私の純文学長篇/の中で自分自身で許せる物と信じているものだ。
 この作品の成立過程は、もとよりトーマス・マンの/「ブッデンブロークス」を模したものを将来書こうと/思い、私の大学時代の創作ノートにすでに「神尾家の/人々」という仮題が記されていた。


 トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々(Buddenbrooks)』には川村二郎(1928.1.28〜2008.2.7)望月市恵(1901.1.25〜1991.9.8)森川俊夫(1930.1.7生)松浦憲作(1931〜1982)の訳があるが、ここでは北氏の旧制松本高等学校の恩師である望月氏岩波文庫3巻本の書影を示して置く。

ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家の人びと 下 (岩波文庫 赤 433-3)

ブッデンブローク家の人びと 下 (岩波文庫 赤 433-3)

 トーマス・マン(1875.6.6〜1955.8.12)の小説を下敷きにしていることは、7月12日付(06)に引いた「「楡家」の裏側」の冒頭でも述べられていた。『マンボウ 最後の大バクチ』単行本34頁2〜7行め・文庫版40頁2〜8行め、

『楡家の人びと』は私の一族の三代にわたる小説であるが、もとよりトーマス・マン|の/『ブッデンブローク家の人びと』を模したものである。マンの長篇に感銘を受け、|いつか/は一家の歴史を書いてみようと大学生になってからずっと考えていた。と言う|のは、私の/祖父に当る楡基一郎の一風変った人柄について、折に触れて聞くことが多|かったからであ/る。火事で焼失した昔の病院が一見宮殿のようだったとは聞いていた。|しかし、写真も見/たことがなかったから、どんなものだったかはまったく分らなかっ|た。


 そして「創作余話」は1頁上段9行め〜下段2行め、連載の前年・昭和36年(1961)に飛ぶ。

 ずっと歳月が流れて私が結婚をした年に、本格的に/取材を開始した。新婚旅行の帰途、熱海に寄ったのも/青山脳病科病院の医者であった斎藤平義智氏と会うた/めだったし、又その年、上山、仙台へ行き、茂吉の弟/に当る「山城屋」主人、四郎兵衛叔父から古い話を聞/き、仙台では桃子のモデルとなった愛子という叔母か/らも話を聞いた。


 ところが「「楡家」の裏側」は、本格的に取材を始める前に、次のような決定的な出来事があったことを語る。『マンボウ 最後の大バクチ』単行本34頁8〜11行め・文庫版40頁9〜12行め、

 たまたま、大学生として生活していた仙台に、小説の桃子の原型である叔母がいて、|久/方ぶりに会うことができた。叔母は話好きで、昔の思い出をよく語ってくれた。そ|して持/っていた昔の病院の写真を見せてくれた。その確かに宮殿のような外観を見て、|私はこの/小説はもう書けたとも思った。


 「創作余話」では写真を見せてくれた人物を明かしていないし、時期も違っている。2頁上段16行め〜下段2行め、

 青山の分院、私宅は五月二十五日夜の空襲で焼けた/ので、写真もほとんど失なった。私が往事の帝国脳病/院の写真を見たのは大学を卒業してからであった。そ/の規模の雄大さ、奇天裂さに驚ろき、一夜、三島由紀/夫氏にその写真を見せ、
「これはどういう建築様式でしょうか?」
 と尋ねると、
「ぼくにはわからんねえ。しかし、ぼくはこういう家/に住みたいんだ」
 と答えたことをはっきりと記憶している。


 「創作余話」を発表した当時は、叔母の役割は語りにくい「裏側」であったのだろうか。(以下続稿)