昨日の続き。
北氏が「週刊小説」連載のエッセイ「マンボウ酔族館」に南太平洋旅行の回想「ゴーガンの息子」を書こうと思ったのは、平成10年(1998)夏、2つ前(『マンボウ酔族館 パートⅥ』280~284頁)54番め「ふしぎな縁」によれば、夫人が首を痛めてギプスをして寝込んでしまい、1つ前(285~289頁)55番め「雨の音から」によれば、秋になっても帰京出来ず足止めされることになった中軽井沢(千ヶ滝西区)の別荘で長雨に降り込められて、ふとこの旅行のことを思い出したのが切っ掛けとなったものらしい。
『マンボウ酔族館 パートⅥ』286頁5~10行め、
一夜、激しく雨が降ったとき、だしぬけに東サモアのことを思いだした。昭和三十四年、私/はポリネシアの島々を旅したことがある。
タヒチで、たまたま女性人類学者の畑中さんと会った。私のタヒチ滞在中は好天がつづい/た。しかし別れるとき、畑中さんは言った。
「北さんは運がいいけど、今は雨期ですから、どこかできっと雨にやられますわ」
次のフィジーでも好天に恵まれたので、私は彼女の予言を忘れかけていた。
この予言は『南太平洋ひるね旅』、③文庫版154頁8行め~155頁1行め、ニューカレドニアの首都ヌメア滞在中の記述に見えている。
タヒチでH嬢に、あなたは悪運が強い、と言われた。ちょうど訪れていた雨期のため、彼女ら/も、練習船の人たちも、往々びしょ濡れの目に会ったのに、私の滞在中はまことに好天が続いた/からである。今に、どこかの島で、きっとひどい目に会いますわ、と彼女は予言した。
食事をしに行こうとアパートの窓から見ると、なるほど雨が降っている。しかし、大したこと/はない。熱帯の雨は、降るときは降るが、あがるのも早いのである。少しばかり濡れてもすぐ乾/いてしまう。それゆえ原住民たちは雨に濡れることを一向にかまわない。本当はかまうのかも知/れないが、平然と濡れて歩いているのをよく見かける。
それでも私はレーン・コートをとりだした。このレーン・コートは、これまでの旅の間、邪魔/っけで邪魔っけで、腹が立つばかりであった。そういう腹立たしい存在を、少しでも利用できる/【154】というのはいい気持がするものである。
『マンボウ酔族館 パートⅥ』の55番め「雨の音から」で気になるのは、旅行の年を「昭和三十四年」としていることである。
『マンボウ酔族館 パートⅥ』の56番め「ゴーガンの息子」では290頁8行め、
昭和三十六年、初めてタヒチに行ったとき、私は女性人類学者畑中さんに会った。‥‥
とあって、こちらが正しい。
「週刊小説」連載時、1回違いの「雨の音から」と「ゴーガンの息子」とで、「初めてタヒチに行った」年、すなわち「女性人類学者畑中さん」に会った年に矛盾があることに、編集部では気付かなかったのだろうか。担当者は「ゴーガンの息子」の原稿をもらったときに気付いて、単行本にするときに「雨の音から」の本文を訂正するべきであった。286頁5行めと290頁8行めで、僅か4頁の違いなのである。
しかし、どうも、『マンボウ酔族館 パートⅥ』は全体に校正が甘いようである。通して読む余裕はないのだけれども、何箇所か拾い読みした限りでも、以下のような誤りがある。
・43番め、222~226頁「中学生」の226頁7行め、
「おまえ、東洋永和の教室に、爆弾花火を投げこんでこい」
「東洋永和」は、北氏の姉が通っていた、『楡家の人びと』では楡藍子が通っていた「東洋英和」である。
・51番め、265~269頁「朗 読」の最後(269頁7~8行め)を、
辻のアパートで、彼がマンの「グッデンブローク家の人びと」の第一章を、一節ずつ原文で/カードに抜き書きして、小説の方法論を学んでいることを知らされた。
と締め括っているのだが、当ブログでも2014年7月28日付「北杜夫『楡家の人びと』(08)」及び2014年7月29日付「北杜夫『楡家の人びと』(09)」に触れたように、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々(Buddenbrooks)』である。北氏の文字が読みづらくて「ブ」を「グ」と誤読したのであろうか、しかし誤読にしても誤植にしても、校正者は何をしていたのか、と云う気分にさせられる。
・54番め、280~284頁「ふしぎな縁」の281頁1~2行め、
その方は直木孝次郎という著名な国文学者で、くださった御著書「山川登美子と与謝野晶/子」によると、事情はこうである。
直木孝次郎(1919.1.30~2019.2.2)は「著名な日本古代史学者」である。その傍ら、近代文学者に関する著書を2冊出している。
- 作者:直木孝 次郎
- 発売日: 1996/08/24
- メディア: ハードカバー
- 作者:直木孝 次郎
- 発売日: 2016/01/30
- メディア: 単行本