瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(288)

北杜夫の赤マント(3)
 それでは北杜夫の遺著マンボウ最後の家族旅行』の「『楡家の人びと』独訳のことなど」の赤マントに触れている、最後の部分を抜いて置きましょう。単行本97頁3~11行め(改行位置「/」)・文庫版142頁2~11行め(改行位置「|」)、

「楡家」は戦争体験者も多かったのか、かなりの方達に読んでいただいた。
 私が若かった頃、香港へ行く時に乗った客船に、アメリカなどに留学する学生|さ/んがかなりいた。外国に行くと日本の文学を読むのがいちばんの楽しみになる。|そ/れでかなりの若者が「楡家」を持参していてサインを求められた。こういうと|き、/作家というものはいちばん嬉*1しいものである。もっと印象に残るのは、昔ポ|リネシ/アの島々をまわった時、韓国人の医者の家に招*2ばれたが、奥さんが「楡|家」を読ん/でいて、「楡家」に出てくる赤マント(註・癩*3病〈ハンセン病〉患者|の怪物が若い/女の首に牙*4をたてて生き血をすするという流言蜚語*5である)の話は|韓国でもデマに/なったのですよ。韓国では便所の中から出るんです」などと話し|てくれた。


 本書の Amazon のカスタマーレビューに、往年のマンボウシリーズを愛読して来た複数の読者が指摘しているように、やはり最晩年の骨折・肺炎等の入院後で筆力も衰え、それなのに雑誌連載エッセイ「マンボウ夢草紙」の材料とするためであるかのように、老軀に鞭打たれて娘にあちこち連れ回されているような按配で、愛読者ではない私にしても読んでいて、確かに「つらいもの」があるのです。
 この短い引用も、やはり文章として据わりが悪く、内容も、やはりおかしいようです。
 まづ「香港へ行く時に乗った客船」なら「アメリカ」では方角違いで「ヨーロッパに留学する学生」ではないでしょうか。遠藤周作辻邦生のように。
 確かに自由になるお金の少なかった当時の留学生が、安上がりな娯楽として分厚い小説本を日本から持って行ったと云うのは、ありそうなことです。
 10月24日付(286)に参照した、KAWADE 夢ムック 文藝別冊「追悼総特集 北 杜夫 どくとるマンボウ文学館」の斎藤国夫作成「北杜夫略年譜」を見ますと、223頁上段7~9行め「1964年(昭和39) 37歳」条に「4月『楡家の人びと』を新潮社より刊行。11月、/『楡家の人びと』で第18回毎日出版文化賞を受賞。」とありますからそれ以後、そのうちに海外へも飛行機での移動が普通になるはずですから、この「香港」行きは、223頁上段10~12行め「1965年(昭和40) 38歳」条に「5月、京都府山岳連盟の西部カラコルム・ディラ/ン峰登山隊に医師として参加。」の途次のことなのでしょう。この体験は昭和41年(1966)11月刊『白きたおやかな峰』に小説化されております(未読)。
 そうすると「ポリネシアの島々をまわった時」も同じ頃のことと思われるのですけれども、「北杜夫略年譜」を見る限り、その候補となりそうなのは222頁下段31行め~223頁上段4行め「1961年(昭和36) 34歳」条、「1月、慶應の医局を辞め、兄の斎藤神経科医院を/手伝う。4月、横山喜美子と結婚。10月、世田谷/区松原に転居。『どくとるマンボウ昆虫記』を中/央公論社より刊行。12月、南太平洋取材に出発。」そして223頁上段5~6行め「1962年(昭和37) 35歳」条、「1月末、帰国。4月、長女由香が生まれる。」と云う、昭和36年12月から昭和37年1月に掛けての「南太平洋取材」しか見当たらないのです。
 しかし、これでは単行本刊行前であることはもちろん、「赤マント」の件を含む第二部が雑誌「新潮」に連載されたのが昭和38年(1963)9月から昭和39年(1964)3月だから、初出よりも前になってしまうのです。――それでも、何らかの手懸りも得られようかと思って、取り敢えずこの「南太平洋取材」が本になっていないか、217~221頁「北杜夫著作目録」を見てみますと、217頁上段2行め~220頁上段16行め「●単行本目録」に、217頁中段1行め「『南太平洋ひるね旅』(新潮社、’62・6)旅行記」が、すぐに見付かりました。
 そこでこの書名で検索して見ますと、次の文庫版の Amazon のカスタマーレビューに、それらしい記述があったのです。
新潮文庫2118『南太平洋ひるね旅』昭和四十八年四月三十日発行・235頁

・昭和六十一年十一月三十日二十二刷・定価311円
 「窓に!窓に!」というハンドルネームで2014年6月19日に投稿された「★★★★★ 今は消え去った風景」と云う長文のレビューの一節に、

文庫版の後書きによれば氏は1976年にタヒチを再訪しているのですが、グランドホテルは既に無くなっており寂しかったとあります。ホテル周辺は道路が拡張されたり海岸が埋め立てられたりして様子が変わっているので、氏は建物を見つけることができなかったのかもしれません。あるいは‥‥

とあって、「北杜夫略年譜」には見えないのですが、北氏は昭和51年(1976)にも南太平洋を旅行しているのです(グランドホテルがどうなったのかは、レビューを見て下さい)。文庫版は昭和48年(1973)刊行ですから後で追加したのでしょう。――この再訪時のことだろうと見当を付けて、差当り何かヒントがあろうかと考えて早速近所の図書館で『南太平洋ひるね旅』の文庫版を借りて来ました。消費税導入後のカバーが掛かった二十二刷で、227~228頁「後記」に、228頁2行めに下詰めで小さく「(一九七三年記)  」と添えて、1行分空けて3~8行めに「 その後、一九七六年四月に、南太平洋の島々を再訪する機会を得たが、‥‥」と再訪での全体的な印象と、通貨の相場を述べ、9行め下詰めで小さく「(一九七六年附記)  」と添えています。10行めはやや大きく下詰めで「著   者 」。
 そうすると、この再訪時の旅行記を探さないといけないはずなのだけれども、すぐにその必要がないことが分かりました。――「韓国人の医者の‥‥奥さんが「楡家」を読んでいて」と云うのは、北氏の記憶違いだったのです。(以下続稿)

*1:単行本ルビ「うれ」。

*2:ルビ「よ」。

*3:ルビ「らい」。

*4:ルビ「きば」。

*5:ルビ「ひご」。