一昨日からの続き。
・時期(4)昭和35年4月
それはともかく、どうしてこんなことになったのだろうと思って、一番詳しい川端氏の伝記である小谷野敦『川端康成伝 ――双面の人』(2013年5月25日初版発行・定価3000円・中央公論新社・650頁)を見た。
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/05/24
- メディア: 単行本
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「古都」の連載が始まったのは十月八日である。しかし川端は、直前まで何も考えていなかったようで、/九月末、澤野久雄に手紙を書いて、何も書くことがないと言った。京都を舞台に描くということで、京/都に家を借り、連載を引き受けて、直前になってこれである。澤野は驚き、慌てて京都へ行くと、北山/杉を川端に教え、これをモティーフにするよう示唆した。
などとあって、かなり行き当りばったりだったらしい。
そもそもの始まりは、466頁2行め〜478頁2行め「北米・ブラジル巡歴と混血美女」の節、昭和34年(1959)のこととして、468頁3行め、
かねて、京都を舞台に小説を書きたいと考え、「朝日新聞」への連載という話もあって、それなら京/都にしばらく住む場所を探すということになった。十二月四日、はとで京都へ行き柊家に泊。‥‥
ある家を借りることにして、8行め「七日、特急つばめで帰ったが」駄目になったので、12〜13行め、
‥‥。十二日、また‥‥京都へ行き、十三日、‥‥下鴨の武市という家を見/に行き、借りることを決めた。‥‥*1
ということになる。「はと」も「つばめ」も東海道本線の特急列車。そして、470頁3行め、
昭和三十五年(一九六〇)一月八日から十一日まで、武市に挨拶するため、秀子と京都に行った。‥/‥
とある、川端秀子(1907.2.8〜2002.9.9)は夫人。6〜7行め、3月12日「から川端は‥‥、秀子と/京都へ行き、」とあるが、続けて「東大寺の‥‥お水取りを見せてもらっていた。」とあって、京都が目的地ではなかったらしい。
470頁7〜10行め、次の引用に見える川端政子(1932.2.23生)は養女(従兄の娘)。
‥‥。四月四日には、政/子と京都行きである。五日、平安神宮で紅枝垂桜を見て「出井」で寿司を食べていると雨になったの/で府立美術館の梅原龍三郎展を観に行き、円山公園から清水寺を巡り、政子をたん熊へ連れて行った。/六日は嵐山で、‥‥*2
このときは、12〜13行め「七日、‥‥特別に修学院離宮を/観て、十日、はとで帰宅した。」が、17〜18行め、
とこの年は4月の半分を京都で過ごしている。その後、5月2日から8月23日まで、川端氏は洋行している。
この4月5日に「美貌」の政子と平安神宮から清水寺を巡ったことが、友人の真砂子が思わず「きれいやなあ」と見とれてしまうくらい*4の美貌の千重子が幼馴染の、やはり「名刀のよう」な美男子の水木真一と同じコースを歩く「春の花」の章に投影されているのである*5。
小説の中では、千重子は、13頁17行め「神苑の入り口をはいるなり、咲き満ちた紅しだれ桜の花」を眺め、14頁4行め「その下の芝生に‥‥寝ころんでい」る真一と落ち合う。16頁7行め「西の回廊の入り口」から、10行め「回廊が外へまがってるところ」を経て、17頁2行め「池の方へ進」み、「道の狭まったあたり」で、5行め「澄心亭という茶室」から出て来た友人の「真砂子」に声を掛けられる。18頁6行め「茶室の下の小みちを抜け」て西神苑の白虎池の、9行め「岸をめぐって、小暗い木下路にはい」り、本殿の北側を東へ抜けて、10行め「前の池よりも広い池の庭」に出る。中神苑の蒼龍池である。19頁1〜2行め「池のなかの飛び石を渡った。「沢渡り」と呼ばれている。鳥居を切っ/てならべたような、円い飛び石である*6」というのは、池の中の島に渡る臥龍橋。ここで醍醐の塔についての会話が交わされ、それが終わる頃に、20頁2行め「少し奥の沢渡りを渡り終わっていた。」
3行め、これを「渡った、岸のあたりに、松が群れ立ち、やがて橋殿にかか」る。岸というのは東神苑の栖鳳池の北岸から東岸で、2〜3行め「正しくは泰平閣と呼ぶように「殿」の姿も思わせる「橋」である」橋殿で鯉に餌をやったりして、21頁12行め「橋の向こう」の、14行め「名木として知られている」「もっともみごと」な「紅しだれ」の、22頁12行め「あたりには、あらい白砂が敷かれ」、12〜13行め「白砂の右手に、この庭としては高い松の群れが美しく、そして神苑の出口」に到る。14行め「応天門を出てしまうと、」22頁1行め「清水から京の町の夕ぐれが見たいの」と言う千重子の希望で、5〜7行め、
かなりの道のりだった。電車通りはさけた。二人は南禅寺道へ遠まわりをし、知恩院の裏を/抜け、円山公園の奥を通って、古い小路を清水寺の前へ出た。ちょうど、春の夕もやがこめて/いた。
小説の2人は午後に会って歩き出したらしい。しかし真一は芝生に寝ているのだから、昼頃に「雨になった」昭和35年(1960)4月5日ではないようだが、醍醐寺五重塔の落慶法要の前日だから、9月5日付(10)の最後に引いた会話を交わすには、ぴったりである。6日に川端父娘は醍醐寺には行っていないが、滞在中、現地の人からそんな話も出たのかも知れない。(以下続稿)